2018/04/10

【信仰書あれこれ】ナイチンゲールが看護婦たちに語ったこと

フロレンス・ナイチンゲール は、生涯に一万数千の手紙を書いたそうです。これらとは別に、聖トマス病院にあった看護婦訓練学校の学生宛てに14通の長い書簡を送っています。

14通のうち8通が『新訳・ナイチンゲール書簡集――看護婦と見習生への書簡)(小玉香津子・薄井坦子他編訳、1977年、現代社) に載っています。書簡全体を貫く主題は「看護と科学と宗教(信仰)とのつながり」です。

彼女の深いキリスト信仰に触れられる部分を、以下に何か所か引用します。

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・看護のような仕事においては、忙しくて、もう頭も手もいっぱいといったときに、もし神と隣人とに対する真剣な目標を心の中に持っていないとなれば――たとえうわべは隣人に尽くしているように見えても――決して彼らのためにも、神のためにも尽くしてはいず、もっぱら自分のためだけで終
わっているといった事態が、いともたやすく起こりうるのです。(8頁)

・キリストにとっては、神がすべてでした。しかし私たちは、時に神を見失ってしまいます。一日を病棟で忙しく気を使いながら過ごして疲れきった後でも、「父よ、私の霊を御手に委ねます」という気持ちで心を休めることができますか。また気がかりな患者のことを夜の闇の中で思いながら、「神よ、私を見守っていてくださるように、彼らを見守ってください」と祈れますか。また朝になれば、神のものなる病人の世話を通して、神に仕える一日がまた与えられたと、心をはずませて起き上がることができますか。(38頁)

ローマ人への手紙の第12章 は「私たちのあり方の原則を述べたものとして、この章より優れたものが他にあろうか」と言われてきた章なのですが、そこに「慈善をする者は快く慈善をすべきである」と書かれています。それは、私たちが看護や親切を行うにも、あたかも自分にとっては何でもないことのように、また、人ではなく神に仕える気持ちでせよ、という意味なのです。「互いに思うことをひとつにし」とあるのは、私たちが他の人と同じ思いと気持ちとを持ち、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」、自分の中から出て他の人の思いの中に入っていく、という意味です。(46頁)

・私たちは自分の名誉などに関わりなく、正しいことは正しいという理由からだけで行うようにしているでしょうか。私たちが自分の心に、ただひたすら「何が正しいか?」、あるいは(同じ質問ですが)「何が神の意志か?」と問うているようであれば、そのとき私たちは、まさに神の「国」に入ろうとしているのです。(62~63頁)

・私たちが神の前に捧げて恥ずかしくないことだけを口にしたり行ったりすること、これが守るべき原則です。私たちは神の前に、陰口やつまらない中傷や、偽りや色恋沙汰や、不正や不機嫌や、悪意や嫉妬心や、愚痴などを捧げることはできません。これらのことから生じてくる害悪のすべてについて、私たちが責任を負っていることを思いなさい。(90頁)

書簡集全体がこのような言葉で溢れています。看護職についておられる方や、将来そのような職を目指している方に特にお勧めします

JELA事務局長
森川 博己

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