2018/07/24

【信仰書あれこれ】中年から熟年への30年を、バルトがその時々に語る

『バルト自伝』(佐藤敏夫編訳、1986年第2版、新教新書51)をとりあげます。

1884年にアメリカで創刊された、主流派クリスチャン向けマガジン『クリスチャン・センチュリー』誌は、1939年に「最近10年間に私の心はいかに変化したか」というシリーズを企画し、キリスト教界の著名人に寄稿を求めました。寄稿者のほとんどは米国人でしたが、欧州からただ一人、カール・バルトが加わっています。

同誌は以降も10年ごとに計3回このシリーズを実施し、バルトは3回とも寄稿しています。本書はバルトが書いた記事のすべて(42~72歳の自伝的記録60ページ余り)と、編訳者による解説40ページ余りからなります。解説は、上記の30年の記録に触れられていないバルトの前半生や、記事の背景になっている事柄に関する知識を提供しています。

以下では、バルトの「自伝」部分から興味深い箇所を引用します。

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<1939年に寄稿された、1928~38年/42~52歳の自伝>
  • 私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じである……。いわゆる「宗教」が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、私の意図する限りは、神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わっていない。(50頁)
  • この10年間に私はキリスト教の教理の哲学的、すなわち人間学的な(アメリカでは「ヒューマニスティック」ないしは「自然主義的」と言われる)基礎づけと解釈の最後の残滓を、除き去らねばならなかった。……キリスト教の教説は、もしそれがその名にふさわしくあるべきであり、教会をこの世の中にその名にふさわしく建設するべきであるならば、排他的に、決定的にイエス・キリストの教説――我々人間に語りかける、生ける神の言葉としてのイエス・キリストの教説であるということを、私はこの10年間に学ばねばならなかった。(60頁)
  • 私の新しい課題は前に言ったことをとりあげてもう一度新しく考え直し、それを改めてイエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織立てることである。私はこの課題に従事する場合――私はそれをキリスト論的集中と呼ぶのであるが――教会の伝統について、また宗教改革者特にカルヴァンについても(言葉のよい意味において)、批判的な検討へと導かれたという事実を黙過するわけにはいかない。私はこの集中において、前よりもすべてのことをはるかに明瞭に、明確に、単純に、しかも信仰告白の形で、同時にまたはるかに自由に、あからさまに、包括的に語ることができる。というのは、前には私は、教会の伝統によってよりも、哲学体系という殻によって、少なくとも部分的には妨げられていたからである。(61頁)

<1949年に寄稿された、1938~48年/52~62歳の自伝>
  • 私はこの時期に、侵略に備える一種の秘密結社に加入した。またドイツ告白教会後援協会の一員として、無限の忍耐をもって、また多くの場合に見事に、外国亡命者、特にユダヤ人亡命者の世話をやってのけた……。最後に54歳にして私はともかくも正規の兵士……となり、ライン河やユーラ山脈その他の場所で、ヒトラーの悪魔の軍隊に対して歩哨勤務や警戒勤務に従事したのである。……そのことによって私は、これまでになかったほどスイスの一般市民と親しくなり、日夜一緒に過ごすことになった。私は喜んで、心から喜んで、時折これらの私の戦友たちに説教をした。彼らの95パーセントは普通、教会に行かない人々であった。このようにして私は、本当に人間を目指してなされる説教はどのようにして作られねばならないかを新しく学んだ。(79~80頁)

<1959年に寄稿された、1948~58年/62~72歳の自伝>
  • 宗教改革以来、プロテスタント神学において誰もこんなに多くの、批判的ではあるが積極的な、いずれにせよ真剣な興味を、ローマ・カトリックの学者の側に引き起こしたことはなかったという事実に伴う、奇妙な名誉を私に与えねばならないであろう。たしかに『教会協議学』及び私の他の著作についての最も包括的な解明、最も透徹した分析、そして最も興味ある評価さえも、これまでのところ……、カトリック陣営から生まれてきた。(107~8頁)
  • 私のバーゼルの働きの中には、時折の説教も含まれている。そして、近年は地方の刑務所のチャペルが私の愛好する講壇であったと言うべきであろう。市民の秩序をあらかじめ犯した後でなければ、その説教を聞くことができない神学教授は、そんなにいるわけではないであろう。(110頁)

バルトの30年はナチスへの抵抗の歴史と重なります。ヒトラーへ命がけで抵抗していた最中に記された記録として、この「自伝」は貴重です。

JELA事務局長
森川 博己

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