2018/03/16

【信仰書あれこれ】一冊だけ手もとに置けるとしたら

本日は、我が家の狭い書斎を占有する神学書・信仰書の中で、一冊だけ手もとに残せるとしたらどれにするか、このことについて考えます。

頭の体操になるだけでなく、自分の信仰の内実を知る上でも有益な作業です。現時点での我がベスト・オブ・ベストを選んでみました。

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現時点で私が(自分のために)一冊だけ取り置くとするなら、宮本武之助著『聖書のことば』(1977年、潮文社)になります。著者は宗教哲学の専門家で、東京神学大学教授、東京女子大学学長を経験され、本書執筆当時はフェリス女学院の院長だったようです。

本書の次のような記述を読むたびに、聖書とともにずっと持っていたい本だという気持ちを新たにさせられます。

  私たちの目は光のない闇の中では、何ものをも見ることができない。私たちの知性は、神を照らし出すほどの光を持っていないので、神から光が来ないならば、私たちは神について何事も知ることができない。……神に関して私たちの知性が正しく働くことができるようになるためには、まず神から来る光によって私たちの心が照らされ、神の言葉を聞き、神を信じるようにならねばならない。神に関して知性の働きが信仰に先立つのではなく、信仰が知性の働きに先立つ。しかし信仰は、知性の働きを否定するものではなく、むしろその働きによって自らの内容を深く内に読み取り、知解することを求めるのである。(13頁)

  神信仰は神から来る光によって私たちの心が照らされ、私たちが神の言葉を聞くことによってはじめて生じる。この意味において信仰は主観的ではなく客観的である。信仰は、私たちの信仰を根拠づける真理を、その真理そのものの力によって受け入れることである。このように私たちの信仰を根拠づける真理が、聖書の言う神の言葉である。(14頁)

  いつの時代も人々は、自らの欲する神を求めてやまなかったので、創造者である神を正しく認めることができなかった。(中略)神が創造者であるということは、……世界の発生に関する学説なのではない。それは神が全世界の主であるということである。それゆえ創造者である神を信じるということは、私たちが主である神に服従するということである。(中略)私たちがこの世界の主である神を愛し、この神に服従するとき、この世界における私たちの生は、これまでとは異なった意味を獲得し、私たちは真の人間になる。創造者である神を信じるということは、すべてのものの主である神を心を尽くして愛し、この神に力を尽くして従うことである。(2223頁)

  聖書の語るところによると、神は本来一切を超越しており、この世に不在であるかのように、私たちに隠されているのである。ところがこの神は、キリスト・イエスを通して私たちに語りかけ、私たちとの間に人格的関係、「我と汝」の関係を造り出す主体である。この隠されている神との人格的関係に、私たちの全存在を賭けることが、キリスト教の言う信仰にほかならない。そしてキリスト教が語ることは、すべてこの神信仰にもとづいているのである。(219220頁)

この本は、著者が東京女子大学とフェリス女学院大学の学内礼拝で語ったことをもとに、書き改めたものです。「神を知る前提」「聖霊の働き」「罪に死んで神に生きる者」「共に生きうる根拠」など68の項目すべてが、上記のようにわかりやすく、克明に、力強く語られています。

JELA事務局長
森川 博己

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