2018/05/15

【信仰書あれこれ】あわれみの表し方

ヘンリ・ナウエンのことを知ったのは20年近く前です。今回は、最初に読んだ彼の本『あわれみ――コンパッション――ゆり動かす愛』(他二人との共著、石井健吾訳、1994年、女子パウロ会)をとりあげます。

某大学教授が言いました。「ある本をまとめよ、と言われて、だらだらと本を引用するだけでは脳がない。要点を抜き出し、それをどう分類するかが頭の見せどころなんだよ」。

「脳がない」方法でこの本を紹介することになると思いますが、よろしくお願いします。

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本書の目的と中身の概要は以下の通りです。

  • 私たちの最高の理想は、最小の痛みで最大の満足を味わうことなのでしょうか。……この本の答えは「ノー」です。……ここに示される見方は、イエスが言われた「あなた方の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)という言葉に基づいています。(8頁)
  • 私たちはまず初めに、イエス・キリストにおいてお現われになったあわれみ深い神について話そうと思います。……。第二に、キリストに従う者として、あわれみ深い生き方をすることの意味を探ろうと思います。……最後に、あわれみによる祈りと活動の方法について考えたいと思います。(10頁)


鋭い問題意識が感じられる部分を何か所かご紹介します。

<奉仕の目的は神との出会い>

  • もし私たちが……仕える者としてのあり方を神ご自身と出会う方法としないなら、徹底して仕える生き方は意味がないでしょう。……私たちがこの僕としてのあり方の中心に、安らぎと慰めのすべての源である神ご自身を見るようになると、あわれみは、恵まれない人々のために善業をすること以上のものになります。(52頁)
  • ここで私たちは、奉仕とは神を探し求めるためのひとつの表現であって、個人や社会の変革をしようという望みなどではない、深い霊的真理に触れるのです。……私たちが他者に提供する援助が、達成できるかもしれない変革を主眼とする限り、その奉仕は長続きしません。結果が現われず、成功は見込めず、自分たちのしていることへの好評や賞賛が消えてゆくとき、続ける力も動機も失ってしまいます。(53頁)
  • 本物の奉仕があるところには、喜びもあります。なぜなら、奉仕の中には神の現存が目に見えるものとなり……イエスに従う者として奉仕する人たちは、自分が与える以上に多くを受けていることに気づきます。それはちょうど、自分の子どもは自分の喜びなので、その世話をするのに報いなど必要としない母親と同じで、隣人に奉仕する人たちも、自分たちが奉仕する人たちの中にその報いを見出すのでしょう。(54~55頁)

<常識の場を離れることの大切さ>

  • 共同体を、おもに何か温かく柔らかく、家庭的で、居心地がよく安全なものと理解するなら、それは神の従順な仕える者としてのあり方が現われてくるような場には決してなりえないでしょう。私たちが、共同体を第一に個人的な傷をいやすものとして作ろうとするなら、それは、他の人の痛みに連帯することを効果的に実現する場にはなれないでしょう。キリスト者の共同体の逆説は、人々が自発的に「自分の場を離れて」共に集まるところにあります。(104~105頁)
  • 自発的に「自分の場を離れる」ことの逆説は、私たちをこの世界――父、母、兄弟、姉妹、家族、友人――から引き離すように見えますが、実際はそれとのより深い一致の中にいることに気づかせるのです。自発的に「自分の場を離れる」ことは、確実にあわれみに満ちた生活へと導くものです。それは私たちを、区別する立場から他社と同じになる立場へ、また特別の場所に身を置くことからどんな場所にでも身を置くことへと私たちを動かすからです。(112頁)

ナウエンは多くの著作が日本語で読めますが、とっかかり的な情報を知りたい方には、大塚野百合著『ヘンリ・ナウエンのスピリチュアル・メッセージ』(2005年、キリスト新聞社)をお勧めします。

JELA事務局長
森川 博己

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