2018/06/19

【信仰書あれこれ】ロビンソン・クルーソーとキリスト教

近藤勝彦氏(元東京神大学長)の最初の説教集『中断される人生 ― キリスト教入門』(1989年、教文館)をとりあげます。

本書に含まれた「あなたの願いと神の願い」と題する説教の中でロビンソン・クルーソー が登場します。興味深いのでご紹介します。

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神の願い
  • みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろうと聖書に書かれています。(中略)聖書が示している神様というのは、悩みの時には自分のことを呼んでくれ、自分を無視するな、自分がいない様な仕方で悩み続けるなということを願っておられるということです。聖書の神様は、悩みの時にはわたしを求めておられるということで、それは神様の願いがそこにあるというふうに言ってもよいと思うのです。ですから、悩みの時に、あなたの願いとすることを祈れということです。「主よ」と呼ぶということは「祈る」ということです。願いを祈りにせよ。祈りに変えよ。あなたの願いを祈りで表わせというふうに、聖書の神は求め、願っておられるということだと思います。(118~119頁。下線は原文では傍点)
ロビンソン・クルーソー漂流記とキリスト教。
  • 『ロビンソン・クルーソー漂流記』は、誰もがよく知っている物語だと思います……これは子供向けの冒険小説と思われていますが、実はそれだけではない。後半には「摂理論」など、いろいろ神学的な議論が出てくるのです。(120頁)
ロビンソン・クルーソーと聖書
  • ロビンソン・クルーソーは絶海の孤島で実に20年間を過ごすことになるのですが、これはちょうど旧約聖書のヨセフがエジプトの地下の牢獄で、その青年期、人間形成の決定的な時を、13年間過ごすのと非常によく似ています。そこでヨセフを支え、その極貧の環境で彼を人間として成長させたのは……「主が共にいた」ということだ、と聖書は語っています。ロビンソン・クルーソーの場合もそうで、支えは「祈り」なのです。それは……詩篇50篇15節と関係しています。(120頁)
  • 島に漂流して間もなく、彼は病気の発作に襲われます。熱病なのですが、その中で、かねて船から持ち出していた荷物の中にあった聖書を取り出して来て、……「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」という詩篇の一句を見つけるのです。……原文のまま引用しますと「私は生まれて初めてひざまづいて、神に、悩みの日に呼べば救って下さるというその約束を守って下さるように祈った」とあります。そしてさらに、悩みの日というのは病気の時だけではない、それ以外に自分が神から離れた生活をしている日々のことだと知るようになります。そして、強調符号をつけて、「神は私を救って下さったが、私は神を讃えなかった」、私は深く動かされて、直ちにひざまづいて、病気がなおったことを、声をあげて神に感謝した。そして、「ダビデの子イエスよ。私を悔い改めさせて下さい」と叫び、「この時私は一生のうちで、初めて本当の意味で神に祈った」と書かれています。これが絶海の孤島に生きるロビンソン・クルーソーの人生の一大山場であり、彼がその孤独の中で生きることができた理由だと作者は語っているのです。(120~121頁)
最初に信仰が与えられ悔い改めに導かれる瞬間、私もこのような「山場」を体験しました。それが時の経過とともに神との関係が希薄になり、悪い意味で習慣化してしまい、神に対して真剣な叫び声(祈り)をあげようとしない時が訪れる。このような生半可な信仰生活を省みる契機がロビンソン・クルーソー漂流記に秘められているようです。全編読むべきかもしれません。

近藤氏は1994年9月付の「『日本伝道出版』の発足に際して」という短文の中で、「カール・バルトのように神学し、ビリー・グラハムのように伝道したい」と記しています。その言葉どおり、近藤氏の説教集はいずれも力強く励ましに満ちたものです。

JELA事務局長
森川 博己

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