本書の大部分は著者が日本基督教団の滝野川教会で行った説教です。副題の「福音の再発見」にふさわしい説教が選ばれています。ほとんどが1960年代後半の学園紛争の時代になされたもので、キリスト教界への学園闘争の影響が話の端々から読み取れます。
本書のタイトルは「キリスト教入門」ではなく「キリスト入門」です。本書を読む人が、キリスト教ではなくキリストへと入門されることを願い、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」(ヨハネの黙示録3章20節)と、私たちの魂の城の門をあけて入来することをキリストが欲しておられることの重要性を意識したものです。
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取税人ザアカイの救いの性格(ルカ福音書19章1~10節)
- ザアカイの救いは、彼が不正によって得た財産を分かち与えるという実践を伴って現れました。……社会実践はザアカイの真の自己の取り戻しから結果として起こったことです。……ザアカイはキリストの信頼の中で、義とされた。その義認をこのような社会実践において祝っているのであります。自己回復のお祭り、それがキリスト者の社会実践の性格なのです。悲壮な使命感や義務感というものではありません。……信仰だけでは足りないから行為へと行くのではありません。神の言葉に対する感動が社会実践にまでなっていくのであります。(86頁)
裏切るペテロを立ち直らせるキリストの眼と祈り
- それはどんな眼だったか。ルカ福音書22章のペテロの裏切りの後に記されている「主は振り向いてペテロを見つめられた」という言葉は、私たちの心にこのような問いを引きおこす。……この眼の中には、キリスト教の最も中心的なものがあらわとなっているように思われる。キリスト教信仰は、単に教理を暗記することでも、思想を学ぶことでもない。その核心はキリストとの人格的出会いである。……このペテロは、彼自身であり、そして同時に全人類なのである。ペテロは私たちであり、それゆえ、このペテロにおいて私たちもまた見つめられている。(中略)「シモン。シモン、……私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。あの見つめる眼を記しているのはルカだけである。そして、そのルカが、この祈りをも書いているのである。(中略)この祈りの先行において、キリストはペテロの決意の破滅を予告される。そしてその現実が今起こる。(中略)神との結びつきというのは、人間の側では信仰ということである。しかしこの信仰は、人間の決意によって自覚的に倫理的努力によってとらえられたものではない。それとは違った、人間の意識の背後において、ただキリストにより見つめられ、そして守られているものである。(中略)「恵みの中に」あることによって、私たちは、あらゆる不信仰や懐疑によって破壊されない信仰を「自分のうちに」持つ。……何よりも重要なことは、このキリストの愛の中にとどまるということである。キリストは、私たちがキリストにおける神との交わりにおいて新しく生きた者となり、神の子となっていくということを、私たちの中に見つめておられるのである。(95~104頁)
本書にはいくつも斬新な福音解釈が見られるのですが、残念ながら私にはうまく紹介できません。興味をもたれた方は原書にあたってみてください。必ずや満足されることでしょう。
著者は東京神学大学の学長まで務めた日本有数の神学者で、数々の学問的業績がありますが、牧師としての説教からも、福音を伝えたいという情熱がほとばしっています。読むと心が燃える、稀な説教集です。
JELA事務局長
森川 博己
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