2019/01/22

【信仰書あれこれ】ルターの言葉


本書は「信仰」「みことば」「経験」「自由」「人の心」の五章からなり、折々のルターの告白の言葉、神学的思索の表現、洞察や体験の言葉、困難を乗り越えて体験した言葉が掲載されています。

以下では、「信仰」の章から、いくつかの言葉をご紹介します。冒頭に出典となる文献名、引用文最後の括弧書きは、本書『ルターの言葉』の中での頁数です。

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『すべてのキリスト者が騒乱や謀叛に対し用心するようにとのマルティン・ルターの真実の勧告』1523年より
  • 私は、人々が私の名を語らず、ルター派などと言わずに、自分は一人のキリスト者であると言ってほしい。ルターとは何者なのか。その教えは私のものではないではないか。また、私は、誰のためにも十字架につけられていない。……いったいどうして、憐れな鼻持ちならぬ蛆虫の袋である私が、キリストの子たちを私の卑しい名で呼ばせることなどできるであろうか。……私はけっして人の主人ではなく、またそうなろうとも望まない。私は教会の会衆と共に、唯一の我々の主であるキリストの、唯一で公同の教えを持っているのである。(14~15頁)
『ローマ書序文』1522年より
  • 信仰は私たちの内における神の働きである。この働きが私たちを変え、私たちを神によって新しく生み出し<ヨハネ福音書1:2>、古いアダムを殺し、心、勇気、感覚およびあらゆる能力を持つ、まったく別の人へと私たちを造り変え、聖霊をもたらす。まさに、信仰とは、生きた、勤勉で活動的、強力なものであるから、絶え間なく善いことをしないわけにはいかなくなる。また、信仰は善い行いをなすべきかどうかを問わず、人が問う前にすでに行っており、いつでも行うのである。このように行わない人は、信仰のない人であって、信仰と善い行いを求めてうろうろ歩き、周囲を見回すが、何が信仰で善い行いかも分からず、それでも、信仰と善い行いについて、多くの言葉をぺらぺらとしゃべり散らすのである。(17頁)
  • 信仰とは神の恵みに対する、生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。神の恵みへのそのような信頼と認識が、神に対して、すべての被造物に対して、人を喜ばしく、大胆で、快活にさせる。これは、聖霊が信仰において行うのである。そこで、信仰は、強制されることなく自ら進んで、誰にも善いことをなし、誰にも仕え、あらゆる事に耐え、彼にこのような恵みを示した神に愛と賛美を捧げる。火から炎と光を分けることができないように、信仰から行いを切り離すことは不可能である。(17頁)
『待降節説教集』(年不詳)より
  • あなたの救いは、キリストが信心深い人にとって一人のキリストである、ということにあるのではない。キリストはあなたにとって(たった)一人のキリストであり、この方があなたのキリストであるということに、あなたの救いがあるのだ。この信仰は、あなたにキリストを慕わせて、心やさしい思いを生み出す。そこで、強制されなくとも、愛と善い行いがその後に伴っていく。しかし、そのような結果にならないなら、きっと信仰がそこにないのである。なぜなら、信仰があるところ、そこには聖霊もいて、愛と善とを私たちの内に生じさせるはずだからである。(23頁)
『二種陪餐について』1523年より
  • あなたはルターの弟子ではなく、キリストの弟子でなくてはならない……。あなたが「ルターや、ペトロ、パウロがこう語った」と言うのではなく、あなたは、キリストご自身をあなた自身の良心に感じとり、全世界がこれに敵対しようとも、揺るぎなく、これが神の言葉であると確信していなければならない。あなたがこれを自覚していないなら、あなたはきっと神の言葉をまだ味わったことがなく、また、その耳を人の口やペンに向けていて、心の底からみことばに固着していないのである。(27頁)
『ヨハネ福音書第14、15章による説教』1537~38年より
  • そこで、あなたは理解する。神を信じるということは、つまり、悪魔やこの世の作り出すすべてのもの、貧困、不幸、恥辱、罪などに挫けない寛容な心を持つようになることなのである。(29頁)
上記には比較的分かりやすい言葉を引用しましたが、本書には難解な表現も数多く見られます。じっくりと時間をかけて読まない限り、ルターの表現意図を取り違える可能性があること、ご注意いたします。

JELA理事
森川博己

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