日本におけるルター研究の開拓者である佐藤繁彦の『羅馬書講解に現れし ルッターの根本思想』(1932年、ルッター研究会、限定350部)をとりあげます。
本書は、著者が京都帝国大学文学部に提出した博士論文に大幅に修正追加を施したものです。そして、著者の研究生活の収穫であるのみならず、その信仰生活の所産であると序文に記されています。
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以下では、序説で示されるルター神学の要点をいつくかご紹介します。漢字仮名については原文の旧表記を現代表記に改めましたが、マルチン・ルターについては、「ルター」ではなく、原文通りの「ルッター」で引用します。
神の超在と内在
- スコラ神学は、神によって定められた普通の秩序を、神が破壊する異常な出来事においてのみ神の全能を見ようとしたが、ルッターは、世界の普通の進行において、神の最大の奇跡を見たのである。かく、ルッターは、神の超在を説くよりも、世界における神の内在を説き、そこに神の活ける活動を見ようとしたのである。(6~7頁)
神の働きかけへの人間の服従
- ルッターの神観には、人間の思索もしくは願望が、問題となりえなかったことは、明らかだ。ルッターは、実在する神が、人間に対していかなる態度をとるかを一切とした。……ルッターの神観は、神の働きかけを中心とする神観であったのである。例えば、ルッターの『小教理問答』を見ても神は創造の神であり、維持の神であり、支配の神であって、人間は全くただこの恩寵の神に感謝し服従する以外、何らの可能性を持ちえないのである。この思想は、ルッターの神観の根本的特徴を示すものであって、神に服従することが彼の宗教であり、かく服従することも、人間のためではなくして、全くただ神のためであるのが、彼の宗教だったのである。(15頁)
隠されたる神
- 神は霊であるが、世界は肉であるから、世界における神の活動は必然、隠されることになるのである。ルッターには、この場合、「隠される」ということは、「霊的」ということであったのである。霊的な神の霊的なわざは必然、肉である世界に隠されるわけであるが、同様に、肉である人間にも隠されるわけである。ここで、「肉」に対立するものとして、すなわち、「人間の念」に対立するものとして、「信仰」が問題になるのである。ゆえに、「被覆」は、「啓示」の前提であるばかりでなく、信仰の前提でもあるのである。そは、「信仰」は信仰の対象が被覆されるときのみ、可能であるからである。ルッターは被覆の仮象の奥に真実を見るのが信仰だと解しておる。我らの肉の念は、すぐ被覆に眩惑されるのであるが、「信仰」は、よく、神の意志が何であるかを「被覆」の下に読むのである。(17頁)
人を悔い改めに導くもの
- ルッターの『羅馬書講解』に現れた悔改観を見ると、そこには、人間の意識的努力とは無関係に、すべてにおいてすべてを働く神が、人間の心のうちに悔い改めを生ぜしめる者として、描かれておるのである。人間が、一般に、真の意志を有することは否定され、霊的生活が問題になる時には、全ては、神の創造的な力にかかることが力説されておるのである。ゆえに、……人間が自発的になし得る「悔い改め」は、ルッターの全く関知せざるものであって、ルッターは、神の愛と恵みのみが、人間を悔い改めに導くことを明らかにするのである。(26~27頁)
神のために神を求める
- 神を求めるとき、自己のために神を求めるのと、神のために神を求めるのとは、全く違ったことであるということを、ルッターは発見した。自己のために神を求めることは、それがいかに敬虔に見えても、所詮、「自己追求」であって、ただ「対象」が、「最高のもの」に代わっただけで、同時に、自己追求が最も高尚化されたことにすぎないのである。……ルッターは、神を求めることと自己を求めることとの間には、贖われ難い対立を見た。神を求めることは、自己を否定することでなければならない。これが、ルッターの考えであった。(35頁)
本書には『ローマ書講解に現れしルッターの根本思想』(1961年、聖文舎)という現代表記版があります。
私はルッター研究会版を2013年10月に入手してすぐ、時間を忘れて読みふけりました。宗教改革500周年(2017年)を数年後に控え、ルター神学の豊かさに触れる貴重な経験でした。
JELA理事
森川 博己
森川 博己
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