2018/09/27

【信仰書あれこれ】いのちより大切なもの

星野富弘『いのちより大切なもの』(2012年、いのちのことば社フォレストブックス)をとりあげます。

著者の詩+絵(すべて、口に筆を加えて描いたもの)と日常を振り返った文章、小林恵さんの写真が何点か挿入された、きれいな本です。プレゼントに最適です。写真家・小林恵の名は『祈りの小経』(小島誠志著、2013年、日本キリスト教団出版局)で初めて知りました。素敵な写真が撮れる方です。

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書名「いのちよりも大切なもの」は、1986年に著者が作った次の詩のタイトルです。

  • いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが/苦しかった/いのちより/大切なものが/あると知った日/生きるのが/嬉しかった
この詩について、著者は次のように述懐します。

  • 「いのちより大切なものとは何ですか?」。1986年にこの詩を書いて以来、長年この質問を受けてきました。しかし、未曽有の大災害となった2011年3月11日の東日本大震災以降、この質問をされる方がほとんどいなくなりました。この災害で、本当に多くの方がいのちを亡くされました。昨日までそばにいた家族が、友人が、突然いなくなってしまったのです。いのちがいちばん大切だとしたら、健康で長く生きることだけが価値ある人生なのだとしたら、生きるのは、あまりにも悲しくて苦しい連続ではないでしょうか。(24~25頁)
著者は1946年生まれなので、上の詩を書いたのは40歳の時です。著者が口で筆をくわえて絵+詩を書くようになったのは、以下のような事情で首から下が動かなくなったことによります。
  • けがをしたのは6月17日。24歳の梅雨の頃でした。……9年という長い入院期間、「あれがなかったら俺の人生は違っていた」と何度も思いました。あの日、生徒たちの前で宙返りをしなければよかった、いや器械体操などしなければよかったのだ。大学の入試に落ちていればよかった、むしろ病弱であればよかった……。限りなく過去を遡っては後悔を繰り返していました。いっそのこと生まれなければよかった……。(中略)私が大けがをしたと聞いて、ある日、大学時代の先輩が駆けつけて来てきれました。そして後で、「ぼくにできることは、これしかありません」と聖書を届けてくれたのです。……ある日思い切って母に開いてもらうと、このことばに出会いました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」<新約聖書/マタイの福音書11章28節>。(55~56頁)
そして、次のように言えるまでになります。
  • 確かに、けがをして大変な思いをしました。人にもずいぶん迷惑をかけました。でも、何も起きずに順調に生きている自分を想像すると恐ろしくなります。教師としても、人間としても、何も知ってはいなかったからです。死の淵をさまよい、障害ゆえにできなくなったこともたくさんあります。でも、いのちより大切なものに気づくことができた。けがをしたおかげで、この人生ほんの少し得をしたかな……。そう思っています。
毎日見ていた/空が変った/涙を流し友が祈ってくれた/あの頃/恐る恐る開いた/マタイの福音書/あの時から/空が変った/空が私を/見つめるようになった。(61~62頁)

著者の詩はいつも、手書き(口書き?)の詩と花の絵がセットなのですが、ここでは詩だけを何編かご紹介します。
  • 冬があり夏があり/昼と夜があり/晴れた日と/雨の日があって/ひとつの花が/咲くように/悲しみも/苦しみもあって/私が私になってゆく(17頁「悲しみの意味」、花の絵=サフラン)
  • 痛みを感じるのは/生きているから/悩みがあるのは/生きているから/傷つくのは/生きて/いるから/私は今/かなり生きているぞ(20頁「生きているから」、花の絵=イチヤクソウ)
  • わたしは傷を持っている/でもその傷のところから/あなたのやさしさがしみてくる(47頁、無題、花の絵=れんぎょう)
実物を手に取ってお読みになることをお勧めしです。


JELA事務局長
森川 博己

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2018/09/26

【ブラジル音楽ミニストリー】一年で大きく成長したアナ・ライザ

JELAが支援するブラジルの音楽ミニストリーに関する最新報告が届きました。報告者は徳弘浩隆牧師です。



前回ご紹介した音楽発表会に参加した音楽教室常連生のアナ(Ana)・ライザさんのお話です。



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「ねえ、センセイ、ほら手が震えてるよー」と手のひらを私の目の前に持ってきて見せる13歳のアナ・ライザ。「大丈夫だよ。安心して。みんなついてるし、君は上手だから」と手を握って勇気づけてあげました。

この日、彼女はピアノで「虹のかなたに」を弾いて、メロ先生のピアノ伴奏に合わせて「神はわがやぐら」をリコーダーで吹いて、その後でまたピアノに合わせて歌を歌うという三つの発表をこなしました。
ピアノ演奏を披露するアナさん

アナは去年の2月に、私たちが音楽教室をメロ牧師から引き継いですぐに、友達に連れられてやってきました。 音楽やパソコンも練習し、クリスマスには洗礼も受け、今では三十数人来る子どもたちのお姉さん格です。
メロ牧師(左)のピアノ伴奏に合わせてリコーダーを演奏するアナさん
アナのお姉さんのアナ・リズリーとお母さんも教室や礼拝に来てくれ、姉妹で教会学校も手伝ってくれるようになった成長株です。アナはお姉さんのリズリーと二人でよく手伝いもしてくれます。15歳のリズリーはパソコンも上手で、将来に備えてもっと覚えたいというので、難しいパソコン操作や作業も別途時間を取って教えています。
最後は歌うアナさん
母と娘の三人家族は時々サンパウロのイベントや礼拝にも来てくれて、もうみんな家族のような存在です。お母さんの仕事やお姉さんのアルバイトもあるので、最近の礼拝はアナだけの日も多いですが、火曜のメロ先生の音楽教室の日、木曜の私たち夫婦の日、そして日曜日の礼拝と、週に3回教会に通います。学校の宿題も教会でやることが増えました。パソコンを使って調べものをして歴史や理科や英語の宿題をしています。どうしてもわからない時は、私も手伝って教えてあげることがあります。

しっかり者のお姉さんと違って、アナはまだ少し気が弱いところがありますが、みんなの前で一人で演奏したり歌ったりして発表することは、大きな自信につながっていると思います。発表後は安心して、楽しそうに食事をしたり、「写真を撮って」とポーズを決めたり、冗談を言ったり……。もっともっと成長してほしいと願っています。
 
 (徳弘浩隆)
アナ(左)とお友だち
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連リンク】  

【信仰書あれこれ】クリスチャンが共に生きるための指針


ディートリヒ・ボンヘッファー『共に生きる生活』(森野善右衛門訳、2014年、新教出版社)をとりあげます。

以前に、同名の書が新教出版社から「教会と宣教双書2」として出たものを持っていましたが、字間や行間に空白が少なく読みづらいため、少し読んだだけで処分しました。

今回のハンディ版は、2004年発行の改訳新版の訳文を見直し、字の組み方や文字サイズを大きくして大変読みやすくなっています。

ボンヘッファーの本をあまり読んでいませんが、これは間違いなく傑作。いつまでも手元におきたい一冊です。

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170ページあまりの本文は、「交わり」「共にいる日」「ひとりでいる日」「仕えること」「罪の告白主の晩餐」に分類されますが、以下では、「交わり」部分からのみ引用します。

キリスト者の交わりの基礎
  • 人がキリスト者として自分自身の中に持っているもの、その内面性や敬虔性が私たちの交わりを基礎づけることができるのではなく、キリストから来るものが、私たちの兄弟としての関係にとって決定的なのである。私たちの交わりは、ただキリストが私たち双方にしてくださったことに基づいてのみ成り立ち、……将来もそして永遠にそのようなものなのである。(24頁)

霊的な交わり・人間的な交わり
  • 霊的な交わりでは、ただ神の言葉だけが支配しており、人間的な交わりでは、御言葉と並んで特別な力と経験と、暗示的―魔術的な素質を持った人間が支配している。……霊的な交わりでは、すべての力と栄誉と支配とは聖霊に委ねられ、人間的な交わりでは、人格的な類の力とその影響力を及ぼす領域とが求められ醸成される。……霊的な交わりでは御言葉が支配し、人間的な交わりでは心理学的な技術と方法が支配する。……霊的な交わりでは、兄弟に対する謙遜でひたすらな奉仕があり、人間的な交わりでは、見知らぬ人をあれこれ調べ上げようとする打算的な態度が支配する。(34~35頁)

人間的な愛と霊的な愛
  • 「人間的な」隣人愛が存在する。……人間的な愛は自分自身のために他者を愛し、霊的な愛はキリストのために他者を愛する。……人間的な愛は他者を求め、他者から交わりとお返しの愛を求めるが、他者に仕えることはしない。……人間的な愛は、<敵>を愛せない、すなわち本腰を入れて頑強に反抗してくる者を愛せない……。(37~38頁)
  • 人間的な愛は霊的な愛を決して理解できない。なぜなら、霊的な愛は上から来る愛であり、その愛は、あらゆる地上的な愛に対して全く異なるもの、新しいもの、理解できないものなのだから。(40頁)
  • 人間的な愛は、他者とは何者であり、また何者となるべきかについての自分自身のイメージを造り上げる。人間的な愛は、他者の生を自分自身の手中にする。霊的な愛は、他者についての真のイメージをただイエス・キリストから知る。それは、イエス・キリストが刻みつけた、また刻みつけようとなされるイメージである。……霊的な愛は、キリストを通して私たちの間に置かれている他者との境界を尊重し、私たちを結びつける唯一の方であるキリストにおいて、他者との完全な交わりを見出すだろう。……他者に至る最も近い道は常にキリストへの祈りによる道であること、また他者への愛は全くキリストにおける真理に結びついていることを、霊的な愛は知っている。(41~42頁)

訳者解説によると、「本書の原稿は、……1938年9月から10月にかけて、約4週間で一気に書き上げられ、翌39年に……出版された。(中略)[御言葉の下におけるキリスト者の共同生活]の問題と課題が取り上げられていて、この問題を[共同の教会的責任]として考えていきたいと願っている、広範なキリスト教会の牧師・信徒たちの学びと実践のための手引きとして用いられることを意図して書きあげられた」(本書206頁)ということです。

内容の充実ぶりに瞠目させられる一冊です。


JELA事務局長
森川 博己

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【ブラジル音楽ミニストリー】音楽会とスープの夕べ

JELAが支援するブラジルの音楽ミニストリーに関する最新報告が届きました。報告者は徳弘浩隆牧師です。

今回は音楽教室の学期途中に行われた音楽発表会などの模様を紹介しています。

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9月22日の土曜日夕方、続々と人が教会に集まってきました。ちょっとおめかしした子どもたちと、お母さんやお父さんも。ジアデマ教会メンバーは台所でスープの準備、サンパウロ教会の聖歌隊は本番前のリハーサルです。

この日は、8月から12月末までの二学期の中間のイベントと発表会です。家族や地域の方も招いて、音楽会に各種スープと軽食を楽しみましょうというイベントです。

最初にサンパウロ教会の聖歌隊が日本語やポルトガル語の歌を披露しました。それに子どもたちの発表が続きます。短い数小節を弾くだけの子もいますが、お母さんたちはスマホで録画して一生懸命見ています。ピアノ、リコーダー、そしてみんなで歌も歌いました。
子どもたちは20人くらい来てくれました。

発表会で演奏や歌を披露する子どもたち
子どもたちの演奏の次は、メロ先生の友人のプロのトランペットの先生。トランペットを吹いてくれて、すこし楽器の特徴やそれがどのようにできたか話してくれると、みんな珍しそうに聞き入っています。
トランペット演奏に聴き入る子どもたち
それが終わると別の子どもたちの発表があり、サンパウロ教会聖歌隊の「翼をください」の混成三部合唱で音楽会は終わり。それぞれ大拍手でした。子どもたちに参加賞と発表をした子にプレゼント、スタッフやボランティアの保護者の方へも感謝の言葉。そして、軽食の部に移りました。ワインもあって楽しそうに歓談する人もいて夜は更けていきました。

発表会後はスープとワインでにぎわう会場
子どもを抱くメロ牧師

「ドイツや日本のような先進国は子どものころから義務教育で音楽や芸術もあるので、日本人は今日の聖歌隊のようにしばらく練習したらすぐに合唱もできるんですよ。ブラジルの公立学校では今それがなくてとても残念ですね。でも、こうして教会で子どもに音楽を教えて、心の成長に役立てばと思っています。週に三回教会を開けていろんな人が出入りしてくれるのを感謝しています。これからもこの地域の教会としてやっていきます。これからもよろしくお願いしますね」とメロ先生も挨拶をして拍手喝采でした。

私は音楽が苦手でしたが、子どものころからの教育は大切だと思います。いちおう基礎を習っているので、練習したら、こんな自分が今は楽譜の読み方や腹式呼吸を教えて、大人のパート練習もすることができるので不思議な気持ちです。子どもたちの人生・将来が少しずつ良くなっていくならこれからもやっていこうと、スタッフで話し合いました。
(徳弘浩隆)

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【信仰書あれこれ】キリスト教と甘え

土居健郎 『甘え・病い・信仰』(2001年、創文社)をとりあげます。

長崎純心大学で十数回行われているレクチャーシリーズの3回目の内容を書籍化したものです。このシリーズの講師には、科学哲学史の村上陽一郎や民法学の星野英一など、創造的で卓越した学問的活動に従事しているカトリック学者が選ばれています。

故・土居健郎氏は精神医学の第一人者でしたが、一般には『甘えの構造』(1971年、弘文堂)の著者として広く知られています。カトリック信徒ですが、もとはプロテスタントだったようです。

裏表紙に簡にした要を得た本書の説明があるので引用します。
「……戦後における個の自立、独立心を強調する思潮の高まりは、現代社会において甘えの経験を好ましくないもののようにみなす風潮を生み、それが幼児虐待など社会的病理現象を引き起こす原因になったことを明らかにするとともに、人間関係の根底で「甘え」と信頼が果たす意義と役割を明快に論ずる。さらに隣人愛に象徴される他者への愛が強調されてきたキリスト教の従来の見方に対し、「甘え」の視点から聖書に光を当てて、愛されること、愛の受容がもつ深い意味を浮き彫りにし、癒されて在ることの真実の姿を示す……。」

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神に対する甘え
  • キリストが人間としてすべての試練を引き受けて死んだことが万人の罪の贖いとなったというのがキリスト教のメッセージです。そういうわけで、キリストを信じるクリスチャンは神に対して甘えることが可能となったのです。……旧約の時代にすでに神に対する憧れを人々は感じるようになっていましたが、新約の時代になってからはキリストのお蔭で本当に子どものように親しく接することが可能となったのです。(中略)神の愛を信じていいということは、神に甘えていいということではありませんか。「アバ父よ」というキリストが教えてくださった神様に対する呼びかけの言葉は普通のアラム語 俗語で、「お父さん」ということだそうです。神様をお父さんと呼べるということは、神様に子どものような甘えの心情を持っていいということになるのではありませんか。(103~104頁)

聖フランシスコの祈り
  • キリスト教倫理の中でしばしば、愛することはいいことだが、愛されることを求めるのはあまりよくないことだというメッセージがいろいろな形で言われているのではないでしょうか。……愛されることを求めるのは利己的であり、未熟者の証拠であると一般に思われているだけでなく、教会の内部でもそう信じられているように見受けられます。ミサの説教でもそういう意味のことがしばしば話されます。共同で唱えられる聖フランシスコの祈りも実はそういうふうになっているのです。(中略)……私は前からこの祈りを不思議に思っていました。私はあの祈りが実を言うとあんまり好きではないのです。というのは、この祈りは英雄的であることを求めています。……英雄的であることを自分のために求めていいのでしょうか。キリストは天の父にならって敵を愛せよと教え、また「己が十字架を負って私に従いなさい」とおっしゃいましたが、英雄的であれとはおっしゃっていません、私が一番頭をかしげるのは、愛することはいいけれど愛されることはよくない、という意味合いにとれるようにこの祈りが作られている点です。(105~107頁)

愛することと愛されること
  • 聖書はもちろん何よりも愛を勧めます。けれどもキリストの言葉としてはっきり言われているのは、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」ということで、順序としてはキリストに愛されることの方が先です。……肝心なことは、我々は愛されているから、それにならって我々も愛するということです。ですから、愛されるということをさげすんでしまうと、キリストに愛されているということも、どうかするとおろそかになって、ただ愛することだけが大事だということになる恐れはありませんか。……いろいろな霊的な書物を読んだり、また神父さん方の説教を聞いて、……愛しなさいということばかり言って、キリストに愛されているということをそれほど強く言わない感じがします。『ヨハネの第一の書簡』の第4章は特に愛の重要性を説いている箇所で、……「神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合わなければなりません」と結んでいます。このように愛されるという経験が最初にあって、初めて人を愛することができるのです。(107~109頁)

著者には、『信仰と「甘え」』(1990年、春秋社)『聖書と「甘え」』(1997年、PHP新書)という作品もあります。また、経済学者・大塚久雄と法学者・川島武宜という知の巨人と語り合った『「甘え」と社会科学』(1976年、弘文堂)という鼎談もあります。

神学書に『信仰的甘えの暴露――宗教の逆対応論をめぐって』(岡村民子著、1978年、聖文舎)があるのですが、私は未読です。


JELA事務局長
森川 博己

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2018/09/25

【一日神学校】 JELAミニショップを出店、ワークキャンプ・事業活動を紹介

今年も日本ルーテル神学校・ルーテル学院大学主催の「一日神学校」(9月24日開催)でミニショップを出店しました。

JELAのミニショップでは、来年2月に開催予定のインド・ワークキャンプのお知らせとJELAの事業活動紹介、カンボジアの「クロマー」(カンボジア産の多目的スカーフ)の販売をしました。

「昨年売り切れていたので今年は早めに来ました」と言って立ち寄ってくださる方もいらっしゃり、今年も盛況の内に完売することができました。販売収益は全てJELAの世界の子ども支援事業のために用います。JELAのミニショップにお越しくださり、ご協力いただいた皆様に感謝します。



2019インド・ワークキャンプ、参加者募集中!> 
来年の2月9~19日に開催するインド・ワークキャンプの参加者を募集しています。
キャンプの内容は、現地の団体の活動支援と交流、義足作り、施設の子どもたちとのふれ合いなど。
参加できるのは18歳以上(高校生不可)で健康に自信のある方、参加費は18万円です。

詳細・申し込み方法は、こちらのブログ記事をご覧くださいhttp://jelanews.blogspot.com/2018/09/2019.html



【関連リンク】
JELA-workcamp(JELAのワークキャンプに関するFacebookページ)
2015年インド・ワークキャンプ参加者レポート等関連記事(JELAニュース36号)
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト









2018/09/18

2018年9月19~21日 休業のお知らせ


2018年9月1日
日本福音ルーテル社団

平素は格別のお引き立てをいただき厚くお礼申し上げます。
日本福音ルーテル社団(JELA)では、誠に勝手ながら下記日程を休業とさせていただきます。

休業期間
2018年9月19日(水)~2018年9月21日(金)

休業期間中にいただいたお問合せについては、営業開始日以降に順次 回答させていただきます。

皆様には大変ご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解の程お願い申し上げます。

以上

【関連リンク】   

【信仰書あれこれ】日本人牧師と皇太子夫妻との交流

田中政男著『百円玉に誘われて』(1979年、いのちのことば社)をとりあげます。

8月14日の本欄「日本の皇室とキリスト教」の最後の方で、この本を紹介しました。平成天皇夫妻が皇太子殿下夫妻であった時のお二人との交流を描いた部分(196~208頁)がとてもおもしろいので、以下に一部を引用します。

◇◆◇

著者が初めて美智子妃殿下に遭遇するのは、軽井沢で三回目のクルセードを開催した1974年8月、軽井沢テニスコートの前にあるユニオンチャーチの駐車場に車を取りに行った時です。以後何度も親しい交わりの機会が与えられますが、それは著者の積極姿勢の賜物で、その大胆さには学ぶべきものがあります。

  • <1974年8月> 私の立っているすぐ前に皇室用の車があって、目の前に美智子妃殿下が来られた。私は本当にびっくりした。そして心の中で今がチャンスだと思った。美智子妃殿下に伝道するのは今を逃したらないと、ポケットに手を入れると、滝元師の『平安を持つ秘訣』があった。私は勇気を出して声をかけた。「美智子妃殿下」。妃殿下はにっこりして私の方を見られた。「私はキリスト教の牧師です。この本は、とてもすばらしい本です。お読みいただけますか」。……「いただいてよろしいでしょうか」。「はい、どうぞ」。……何かもっと話したいような顔をしておられたが、私は時間を気にしていった。「美智子妃殿下、後ほどもっとよい本を送らせていただきます」。妃殿下はお辞儀をしていわれた。「お願いします」。(196~197頁)
  • <1976年8月> 軽井沢のテニスコートで礼宮さまのテニスの試合があって両殿下が応援に来られた。この年も両殿下にお会いしたいと思ってプリンスホテルに電話をした。するとテニスコートに行っておられるというので、私も出かけて行った。ちょうど両殿下は着いたばかりのようで、避暑に来られている名士の方々とあいさつをされていた。私もその近くに行くと、美智子妃殿下が私を見つけてくださり、とても喜ばれて、わざわざ私の方に近づいて来てくださった。「昨年はすばらしい本を本当にありがとうございました」。そう行って頭を深く下げられた。「妃殿下、お読みになられましたか」。「はい、とてもよい本で教えられました」。そうしているうちに皇太子殿下がこられた。「この方はどなたですか」。「この方はほら、教会の前で私に本を下さった方で、関西から来られた神父様です」。「私は神父ではありません。牧師の田中です」。私はこう言いながら皇太子殿下に握手を求めた。殿下は最初びっくりした様子でためらっておられたが、そのうちに手を出してくださった。私はしっかり握って言った。「皇太子殿下、私たちは毎日、殿下のためにお祈りしております。いろいろ大変なことがおありでしょうが、どうぞがんばってください」。殿下は私の手を強く握り返してくださった。「今日はこれから子どものテニスの試合があるので応援をいたします」。(199~200頁)
  • <1977年8月> その時も皇太子一家が軽井沢に来ておられた……侍従長からベテルハウスに電話があり、両殿下が本と手紙を喜ばれ、ぜひお会いしたいので午前11時前に来てくださいと言われました。滝元先生と娘さんの道子さん、私も娘の真美を連れ、……プリンスホテルに行った。多くの侍従や侍従長から歓迎され、応接室に通された。……5分ほど待っていると、侍従長と一緒に両殿下が静かに入って来られた。妃殿下は私を見るとすぐに声をかけてくださった。「本当によくいらっしゃいました。おなつかしゅうございます」。……侍従長はすぐに出て行った。皇太子殿下がお茶を飲むように勧めてくださった。そこで私は言った。「殿下、私たちクリスチャンは、飲み食いする時いつもお祈りをしますので祈らせてください」。滝元牧師が数分間、両殿下と皇室のため、国家のために祈った。両殿下も敬虔に共に祈ってくださった。妃殿下が、「穐近さんのかかれた『土方のおやじ』の本ありがとう。本当によい本をくださって感謝しております」とお礼を述べられると、殿下も、「新しい聖書をくださってありがとう」と言われた。滝元牧師がすぐに聞かれた。「殿下、聖書をお読みになりますか」。「はい、時々」。そして、聖書と神について両殿下に語ることができた。美智子妃殿下は言われた。「私の一番好きな聖句はマタイ伝5章3節にあります、心の貧しい者は幸いです、ということばです。妃殿下は本当に謙遜な方であった。皇太子殿下は次のように言われた。「目には目を、歯には歯をという憎しみの教えから、汝の敵のために祈れと変えられた新約聖書のイエス・キリストはすばらしいです。汝の敵を愛せよという教えは、他の宗教にはないですね」。私たちは、両殿下が本当に聖書のことばを知っておられるのには驚いた。(200~201頁)


皇太子殿下夫妻との付き合いの描写はまだまだ続きます。この本の白眉です。


JELA事務局長
森川 博己

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2018/09/13

【信仰書あれこれ】子どもと大人のための祈りの絵本

『お祈りしたいな』(絵:カルメ=ソレ・ヴェンドレル、文:マリ=アニェス・ゴドラ、訳:佐久間彪、1991年、至光社)をとりあげます。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%AA-%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%89%E3%83%A9/dp/478340204350ページに満たない、祈りのための小さな絵本です。まえがきで原著者のマリ=アニェス・ゴドラは、この本を作った趣旨を説明します。「……子どもが想像力を働かせるための具体的なイメージを描いてみました。……絵を見ているうちにお祈りの最初の一歩が踏み出せる、最初のひとことが出てくる、そうなるようにと、絵に短い言葉もそえてあります。それがお祈りを始動させるでしょう」。

ゴドラはさらに続けて説明します。「この本のテーマが一貫して『神さまとの出会い』なのは、子どもたちが、『祈りとは何か』ということを知るためにほかなりません。つまり、祈りというものは『暗記用の祈り文』でも、『祈りのための処方箋』でもなく、……その場そのときに、うちから溢れてくるものであるはずだからです」。


◇◆◇

すべてのページに、表紙と同じような、祈りのテーマに沿ったやさしい絵が描かれています。ここでは、一か所だけ引用します。


・ 大好きなひとに会うと
  私は しあわせになって
  そのたびに 私のどこかが
  変わっていきます。

  三つの絵があります。
  起き上がりこぼし 小石 ガラス。

  お祈りで 神さまにお会いすると
  私は 少しずつ 変わっていきます。(23頁)


上記の文の後に、起き上がりこぼし・小石・ガラス、それぞれについての絵と文が続きますが、ここでは、小石に関する文を紹介します。


・ 水につかった石けんのかけらは
  いつのまにか
  水にとけて なくなってしまいます。

  でも、小石は水にとけません。
  それどころか 滝や川の水のなかで
  いつのまにか 角がとれて
  まるい きれいな形になります。

  「かみさま
  わたしのこころが あなたにみがかれて
  きれいな こいしのように なれますように。」(26頁)


訳者の佐久間彪氏(カトリック司祭)はあとがきにこう書いています。「このすばらしい祈りのための絵本を、子どもたちのため、いやむしろおとなのためにこそ訳しておとどけします。……小さい、うすい、でも、深い広い祈りの世界に導いてくれる楽しい本。それが、この祈りのための絵本『お祈りしたいな』なのです」。

同じ出版社から以下の姉妹編の絵本も出ています。
からだで祈ろう』『朝です―復活祭の祈り―』『光です―クリスマスの祈り―』『うれしいときのお祈り』『おはなし しよう 神さまと わたしの詩編

いずれも、きれいな絵とやさしい言葉で祈りの本質に導きます。大人が読んでも心に響く本です。

JELA事務局長
森川 博己
 
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 【関連リンク】


2018/09/12

【信仰書あれこれ】 キリストのうちにとどまる

阿部光子『聖書のある人生』(1979年、彌生書房)をとりあげます。

https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8B%E4%BA%BA%E7%94%9F-%E9%98%BF%E9%83%A8-%E5%85%89%E5%AD%90/dp/4841504516
本当の意味で悔い改めてクリスチャンとしての人生を歩みだした1984年2月から少ししてこの本に出会いました。内容にとても触発されたのを今でも覚えています。久しぶりに読み返してみたところ、昔と変わらず充実していました。

あとがきによると、著者が日本基督教団和泉多摩川教会を建設する志を立てたのが本書発行の10年前で、当時は日曜ごとに10人足らずの人々が集まり「ヨハネ第一の手紙」を学んでいたそうです。
 
本書には、その「ヨハネ第一の手紙」の学び部分が、百ページにわたって収録されています。
 
 
◇◆◇
 
以下では、ヨハネ第一の手紙2章1~29節についての話の中の「キリストのうちにとどまる」と題された部分をご紹介します。著者はいくぶん毒舌風でストレートにものを言います。それが彼女の魅力であり、読む側の内容理解の助けにもなります。
  •  私たちは自分から求めて聖書のみことばを学んでいるように錯覚していますが、実はそうではない、不思議な力によって導かれて、今日この処で聖書のみことばを学んでいることに、どなたも思いを沈めて考えるとき気づかれるでしょう。それをキリストからいただいた油、神の御霊の働きにより教えられたというのです。そして、キリストにとどまっていなさいと、ここでみことばは私たちに示します。(78頁)
  • 「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない。あなたがたに私が命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」<ヨハネ福音書15:13~14)と十字架を前に教えてくださり、自らその教訓を生かして見せてくださったのです。このご教訓を拝読すると、すぐ、私は友のために生命が捨てられない、だから、と思い悩みます。それは有限者人間の考えというものです。全き愛の神が、あれをしなければこうしてやるなどという、不完全な有限の人間のような考え方をなさるでしょうか。……こうすればいいことがある、ああすれば悪いことがあると、報いを考え、神と取り引きをし、神を試みるのはやめましょう。にせキリストにつけ入れられるだけだと、ここに示されるのです。ただキリストにとどまっている。主は、何でもかでも勘定ずくの有限の人間の属性にしばられる私たちを憐れんで、十字架につき復活してくださった。(78~79頁)
  •  私たちは、毎日の生活の中で決断を迫られる事件のあるたびに、悦んで受けるトレーニングをするのです。主が十字架をお負いになったのに比べれば、これぐらいのことは、と、歯をくいしばらずに受ける決断をする。またそれができなければ、弱い私にはできないからこういう面倒が起きるのは当然、あの人の怒るのも無理はないと受け入れる。すべてを主によって受け入れ赦していく生活を目指すのを、キリストのうちにとどまるというのです。赦せなければ赦せないでよろしいから、キリストを見上げて赦せない自分であることを正直に告白していく。それもまた、キリストのうちにとどまることです。(79頁)

著者は作家であり、小説やエッセイなど多数の作品を出版されています。救世軍の指導者・山室軍平の長男の妻としても有名ですが、私にとっての阿部光子は『聖書のある人生』の著者です。
 
JELA事務局長
森川 博己
 
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 【関連リンク】

10月にJELAミッションセンター・ホールで「ルターナイツ」

https://drive.google.com/file/d/10etvJ1_jdE4FkFCJYV4GHmL_zX8TCa2x/view?usp=sharing「ルターナイツ」は毎年秋に日本福音ルーテル教会東教区が主催する音楽イベントで、今年は 10月12日(金)午後6時から恵比寿のJELAミッションセンター・ホールで開催されます。

音楽とワインを愛したマルティン・ルターにちなんだイベントで、「音楽を楽しみながら社会貢献」をモットーに、売り上げの一部は震災支援などに用いられてきました。

今回の第一部では、キャロル・サック宣教師によるパストラル・ハープの演奏とトークがあります。リラ・プレカリアにご興味のある方は、ぜひお越しください。

主な内容はこちらです。
「ルターナイツLuther Nights  Vol.9 ボリュームナイン」
日程:10月12日(金)18:00開場 18:30開演 
入場料:ワンドリンク付き大人2000円、高校生以下1000円、小学生以下500円
※売り上げの一部は西日本豪雨・北海道地震・リラ・プレカリアのために用いられます。

詳細はこちらのチラシ(リンク)をご覧ください。
皆様のご来場をお待ちしています!




2018/09/11

【信仰書あれこれ】福音の記憶

岩島忠彦著『説教集 福音の記憶』(2006年、教友社)をとりあげます。岩島氏の著作は以前に『説教集 みことばを生きる』をとりあげましたが、いずれも中身が濃く、この人の本は全部読むべき気がしています。

本書のあとがきで著者は、イグナチオ・デ・ロヨラが『霊操』で「霊魂の三能力」つまり記憶・知性・意志を順次用いて祈ることをいつも勧めていることや、アウグスチヌスも霊魂は記憶・知性・意志からなっているとしばしば述べ、この三者が相互に関連しながら独自の働きをするものだとしていることに触れながら、「記憶」が自分自身の本源的なありようを意識する(想起する)といった深みを失い、コンピュータのメモリや記憶喪失症のように機能的で平板な意味内容しか示さなくなったと問題提議します。

本書は、本来の意味での「記憶」、それも福音書に埋め込まれた三重の記憶(イエス・キリストの記憶、弟子たちの記憶、私たちの記憶)を呼び覚ますための説教を書籍化したものです。

以下では、本書とりあげられた40の説教の一つ「流れる時」をご紹介します。

◇◆◇

聖書箇所はルカ18章1~8節、不正な裁判官に自分の相手を裁いてほしいと、あきらめることなく迫り、最終的に裁判官を動かすやもめの話です。

著者はまず、ドイツの神学者J・B・メッツがよく使う二つの概念、「現代の無時間性」と「断絶」について説明します。
  • 車などでよく聞くリクエスト番組などは、私たちも知っています。曲の合間にどのような悲惨な事件や自然災害のニュースが流れても、多くの人はもう心を動かすこともない。全体がBGMとなって流れていく。……昨日と同じ今日、今日と同じ明日。周りや自分自身に何が起ころうと、そこに立ち止ろうとしない、すべてを平板化して均していってします。そこでは事実「何も起こらない」、自分にとっての「時」とならない。出来事も出来事とならない。ただ流れていくだけ、流されていくだけ。このようにメッツは、すべてを把握しつつも何ものにも感動させられたり深みを揺さぶられたりすることのない現代人の心情を、無時間性という言葉に託して憂慮しています。(63~64頁)
  • 同じメッツに、次のような“命題”があります。「宗教のもっとも短い定義=断絶」。彼にとって、それは「流れる時」の断絶のことです。すべてルティーンとなっていく生の流れにおいて、それを断ち切り、今を今としてくれるものはこの世の事柄ではなく、神様と自分との関わりだけだというのです。(64頁)

この世に流されずに、神の前に自らを置く行為としての祈り
  • 地上の事柄に精通しただけでなく、その世界にすっぽり順応してしまった現代人に、まだ「信仰」の余地が残されているのだろうか。この「無意味な業」の循環を断ち切ることができるのが、神様のみ前に自分を置くことなのです。イエスはこれを「絶えざる祈り」と言っておられます。(64頁)
  • 宗教に無関心で、隣人に人のレベルで関わらず、基本的に自我とその欲が「ルール」となって働く世。そこでいかに神様に祈ろうと、そう簡単にはこの世の「ルール」は変化しない。イエスは、そこであきらめて自分もそれに同化してしまってはいけないと訴えておられます。……しっかりと希望を保って、流されることなく自分の足で神様の前に立ち続けるということです。「絶えざる祈り」とは、どのようなときにも神様に相対し、そこからしっかり生き続ける姿勢を指すのだと思います。そのとき、私たちの生は虚無的な流れではなく、色彩と深みを持つものとして甦ることでしょう。(65頁)

以下の締めくくり部分に共感をおぼえます。

  • 今週の月曜日には洗礼を授けた老婦人の葬儀を行い、火曜日には縁のある四人の様々な年齢の方々の洗礼式を行いました。それぞれの方の大切な「時」に立ち会わせていただいたとの思いがあります。自分自身も残された「時」を、これまでとも違う独自のものとしてくださるように神様にお願いしています。(65頁)

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【一日神学校】 今年もJELAミニショップ出店予定

9月24日(月)開催予定の「一日神学校」(日本ルーテル神学校ルーテル学院大学主催)でJELAがミニショップを出店し、2019年度インド・ワークキャンプのPRやグッズ販売などを行います。


「一日神学校」は、ルーテル学院の神学校や大学の講師らによる講義を一般の人が聞くことができるイベントですが、講義の合間には、ルーテル教会や関連団体がミニショップを出店し、グッズ・食品の販売や、自団体の活動の宣伝をします。
昨年「一日神学校」に出店した際の様子


JELAも毎年出店しており、今回は、来年2月に開催予定のインド・ワークキャンプのお知らせやJELAの事業活動紹介をします。皆さまのご来場をお待ちしております!
グッズも販売します!



2019インド・ワークキャンプ、参加者募集中!>
来年の2月9~19日に開催するインド・ワークキャンプの参加者を募集しています。
キャンプの内容は、現地の団体の活動支援として、義足作り補助、施設に通う児童とのふれあいなど。参加できるのは18歳以上(高校生不可)で健康に自信のある方、参加費は18万円です。 


詳細・申し込み方法は、こちらのブログ記事をご覧ください
http://jelanews.blogspot.com/2018/09/2019.html





【関連リンク】
JELA-workcamp(JELAのワークキャンプに関するFacebookページ)
2015年インド・ワークキャンプ参加者レポート等関連記事(JELAニュース36号)
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

2019インド・ワークキャンプ参加者募集のお知らせ

以下の要領で2019インド・ワークキャンプ参加者を10名前後募集します。
申込期限は2018年11月26日(必着)です。


◆ 派遣期間: 2019年2月9日(土)~19日(火)11日間

◆   派 遣 先: インド、マハラシュトラ州、ジャムケッド村にある医療福祉施設
      CRHP(Comprehensive Rural Health Project=総合的地域健康プロジェクト)

◆   内  容: 義足作り/児童とのふれあい/毎日の学びの分かち合い

◆ 参加費用: 18万円 ※「友達割引」:複数で申し込んだ場合、1人につき5千円割り引きます。
      パスポート、海外旅行保険費用、派遣確定者説明会と出発・帰国時の集合場所から居住地までの交通費や、前泊・後泊する場合の宿泊費用については、上記の参加費とは別に個人負担とります。

◆ 問い合せ・申込用紙請求先:

     JELAインド・ワークキャンプ係り
     住所:〒150-0013
                  東京都渋谷区恵比寿1-20-26
            電話:03-3447-1521
                   FAX:03-3447-1523
          E-mail: jela@jela.or.jp

◆ 申込書類(下記からダウンロードができます)
     ・インド・ワークキャンプについて(PDF)
     ・IWC 募集要項 2019(PDF)
     ・申込書(PDF)     
      

◆   選抜方法:2018年11月26日までに到着した申込書(上記からダウンロードしてください)から派遣者を決定し、11月中に結果を申込者に連絡します。

                
<注意事項> 

① 18歳以上の健康な方(高校生不可)であれば、どなたでも参加できますが、聖書を学び
       話し合う  時間が毎日あり、すべての行事に積極的に加わることが求められます。

②  数名のスタッフが日本から同行し、霊的・語学的面で参加者をサポートします。

③  派遣確定通知受領から出発までの間にキャンセルされる場合は、その時点までに発生した
   費用をいただくことがあります。また、新型インフルエンザの蔓延等、諸事情により日本から
       の派遣を中止する場合があります。JELAからキャンセルする場合は、払込み済みの参加費はご
       返却します。

④  渡航にはパスポートが必要となりますので、お持ちでない方、更新が必要な方は、 派遣確定
   通知受領後速やかに取得手続きを行ってください。






2018/09/03

【信仰書あれこれ】牧会カウンセリングで大切なこと

三永恭平著『こころを聴く――牧会カウンセリング読本』(1986年、日本基督教団出版局)をとりあげます。

本書は、キリスト教月刊誌『信徒の友』に2年半連載された「信徒のための牧会カウンセリング講座」に加筆訂正したものです。内容的にはカウンセリングにとどまらず、精神分析や文学・哲学など様々な領域から豊富な例を引用し、わかりやすくかつ充実した筆致で論が進められます。

以下、その一部をご紹介します。

◇◆◇

人間には身体的必要や心理・社会的必要を超えて霊的必要があります。

  • 最も基本的、あるいは最高の二―ド……人間が創造され、生かされ、存在を許されている根源としての神との交わりを求め、その神から許され、義とされ、受け容れられ、愛されることよって満たされる魂のニード。(11頁)
  • 人々がこれを直ちに意識するかどうかに関わりなく、これを認め、この霊的次元をしっかりと考慮しカウンセリングをしなければ、人間の問題の本当の解決も、苦悩からの解放も、救いも与えられないでしょう。この点をはっきりと認め、それを根本にすえて、あらゆる人生の諸問題や苦悩に対処し、援助を与えようとするのが、牧会カウンセリングです。(11頁)

牧会カウンセリングは牧師だけの仕事ではありません。

  • 「牧会」という語は、また「魂の配慮」という意味もあり、「牧会カウンセリング」とは、魂への配慮という深い次元をも込めたカウンセリング、というふうに理解すべきです。したがって、それは牧師だけに限定されるべきものではなく、一般の信徒も同じように、その隣人に対して負うべき務めであり、また実際に十分に行うことのできるものでありましょう。(12頁)

「アマチュア」である信徒は、愛し、好きだから一所懸命にするというアマチュア精神を発揮できる点で、より生き生きと牧会カウンセリングに携われる可能性があります。逆に牧師には、「プロ」であるゆえの落とし穴があります。著者は、ボンヘッファーを引用してこの点を指摘します。

  • 「キリスト者、特に説教者は他の人にいつも何かを提供しなければならないと考えているが、『語ることよりも、聞くことの方が、より大きな奉仕でありうる』ことを忘れてしまっている。世の中の多くの人々は聞いてくれる耳を求めているのに、その耳をキリスト者の間で見つけることができない。なぜなら、キリスト者は聞いてあげなければならないところでも、すぐに語ってしまうからである」。(本書54頁。ボンヘッファー著『告白教会と世界教会』<森野善右衛門訳> 355頁からの引用)

カウンセリングと人生相談はアプローチが異なります。

  • いわゆる人生相談においては、人生の問題や悩み事に焦点が置かれてきました。「何が問題なのか」「何を悩んでいるのか」を明らかにし、「それをどう解決していったらよいのか」ということが主として考えられてきました。そのために、それについていろいろと質問したり、その解決方法を学識や経験を通して見つけ出して、相手にそれを教え、アドバイスを与えるという方法が採られてきたのです。(33頁)
  • カウンセリングにおいては、これと非常に違ったアプローチをいたします。まず第一に、それは問題や悩みにではなく、その問題や悩みを持っているその人自身に焦点が置かれます。すなわち、その人はどんな気持ちでいるのだろうか、どんなふうに悩み苦しんでいるのだろうか、どうしたいと思っているのだろうか、というようなその人の心理状態を重視します。そして、それを理解し、受けとめること、それを共感することをもってその第一歩とするのです。……その方が問題そのものの解決よりもはるかに本質的な助けになります。(33~4頁)

本書では、後者の人格中心的アプローチを支えるものとしての「傾聴」が詳しく説かれます。また、ドストエフスキーの『罪と罰』、チェスタートンの『ブラウン神父の秘密』等を材料に、牧会カウンセリングの観点から有益と思われる対話例が豊富に引用されます。

探してでも読むべき一冊です。


JELA事務局長
森川 博己

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