2018/08/27

【信仰書あれこれ】ホスピス緩和ケアの権威と「がん哲学外来」創始者の対話(その2)

柏木哲夫樋野興夫 著『使命を生きるということ』(2012年、青梅社)の2回目です。

前回は柏木哲夫氏のエッセイと発言部分のみを引用しましたので、今回は樋野興夫氏の分を紹介します。

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ハンセン病者との出会い

  • 2012年、「がん哲学外来」と私自身にとって、大きな出会いがありました。国立療養所長島愛生園に招かれ、「新渡戸稲造 生誕150周年記念 神谷美恵子 記念 長島愛生園 がん哲学外来(カフェ)」を行ったのです。……そしてここで、これまでの「がん哲学外来」とは異なる設問が出されました。これまでは「人生の目的とは何でしょう」という質問が一番多かったのです。これに対して私は、内村鑑三の、人生の目的は「品性を完成するにあり」を引いて答えていました。しかし、長島愛生園では「何のために生まれたのか」と問われたのです。これほど苦しい人生を送り、しかも今、がんになって、この人生はどうしてあるのか、自分は何のために生まれてきたのか、ひとりの入所者は言うのでした。私は、「神を知るために」と応えました。そのとき、その人の目に涙が光ったのを見たのでした。(177~178頁)


「暇げな風貌」がもたらす効果

  • 私が「がん哲学外来」に必要だと思っているのは、「暇げな風貌」と「偉大なるお節介」なんです……。私の「暇げな風貌」の原点は、吉田富三です。彼はどんなに忙しくても、人が来たらペンを置いて、フェイス・トゥー・フェイスで、その人の目を見てしゃべったという。それはたとえ30秒でも、1分でも、相手にとっては、自分のために時間を犠牲にしていただいたということ。そういう感覚を覚えるというのが私が言う「暇げな風貌」です。……たとえば、大学病院の廊下で患者さんが医師に声をかけることがあります。そのときに「では、廊下を歩きながら話しましょう」という医師と、立ち止まってその患者さんの顔を見て話し、去っていく医師がいます。患者さんにとっては、自分のために時間を犠牲にした医師の方が、余韻が残ります。(185~186頁)


最後に、教会でのカウンセリングについて二人が興味深く重要な話をされているので、その部分から少し引用します。

  • <樋野> この前来た人が言うには、日本の教会で相談するとすぐ、お祈りしますと言うと。相談をしたくて行っているのに、いろいろ話す前にそう言われてしまう。今、東京や横浜の教会から、「がん哲学外来」やメディカルカフェをやりたいというお話も届いています。ただメディカルカフェをやるといっても、できるのかと思うんですね。……患者さんが病院では相談できないから、ここで聞いてほしいとやって来ているのに、「では聖書を開きましょう」となってしまうなら、だめなんです。 
    <柏木> 牧会カウンセリングという言葉があります。……アメリカの場合、牧師はカウンセリング的な教育を受けています。「クリニカル・パストラル・エデゥケーション」。CPEとアメリカでは言われていて、私も何回か参加したことがあります。……いろいろな問題を抱えた人が教会に相談に来ると、CPEを受けた牧師は、まずお話をうかがいます。病院で、まずは受け身でしっかり聞くということを徹底的に学んでいるからです。……ところが樋野先生がおっしゃるように、今、日本の牧師さんは最初から「こうしたらいいんですよ」とすぐに答えてしまう。「聖書を開いてみましょう。ここにこう書いてありますね」と。そうすると、相談に行った教会員は自分のもやもやとした気持ちを打ち明けることができないままに、なんだか教えられたということになる。けれども、心を開いていないから、その教えが入って来ないんですね。そこは大きな問題だと思います。
    <樋野> そう、それはほかの分野でも起こっていることですが、まずは教会が考え方を変え、教会のあり方が変わらないといけないでしょう。その問題が、医療を通してみるとよくわかるんですね。
(中略)

<柏木> ……「お祈りしますと言われたら、それはもう、きょうは終わりと言われたのと同じです」と、その方、言ったんですね……。
<樋野> そこです。牧師がほんとうの対話ができない、慰め、寄り添うということができていない。おかしなことです。(194198頁)

 キリスト信徒である二人の医者による啓発的な話が次から次に展開される、興味尽きない一冊です。

JELA事務局長
森川 博己

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