2018/11/17

【信仰書あれこれ】東北のマザーのいのちのことば

佐藤初女著『いのちのことば 心の道しるべ137言』(2011年、東邦出版)をとりあげます。

著者はカトリック信者で、1983年に「弘前イスキヤ」、92年に「森のイスキヤ」を開設。迷い、疲れ、救いを求めて訪れる人に食事を供し、寄り添うことで多くの人々の再生のきっかけになりました。

本書に掲載された137の言葉の中から、いくつかをご紹介します。括弧の数字は本書内の通番です。

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苦しいのは、自分が刷新されているから(33)
  • かつて大きな苦しみの中にあった時、神父様にお話ししたら、「苦しみなくては刷新ははかれません。その苦しみを乗り越えた時に、恵みはやってくるのですよ」と励ましてくださったことがありました。以来、苦しい時は「私は今、刷新されているんだ」と思うと、ずいぶん楽になるような気がします。

 悲しさだけに囚われないで(46)
  • たとえば肉親を失うということは、それは悲しいことです。でも、その悲しさだけに囚われないで、その人が生前にどのように望んで、どのように生活した人であるのか、そのように自分も生きるというのが慰めにもなり、力にもなります。

  相手ではなく、自分と向き合う(49)
  •  悩んでいる人や心に傷を負って苦しんでいる人は、本当のところでは苦しみを真っ向に受けとめないで、逃げているように思うのです。もし相手に腹が立つなら、まずは腹を立てている自分を認めること。心が苦しんでいるなら、悲しいというという自分をそのまま受け入れることです。自分を見つめることもせず、相手に原因を探しても、何の解決にもならない。そして感じることを抑えてしまうと、必ず無理が出てきます。

 限界を超えた行動こそ、魂に響く(65)
  •  「奉仕」や「犠牲」というのは、自分を苦しめることではありません。誰にでもできることを超えて、相手のために行動するということです。

 大きなことはできなくても、小さなことならできる(75)
  • たとえば自然災害が起きた時。大きく考えたら、私たちにできることは何もないわけです。それでも、まず自分に何ができるかを考えたいと私は思うんです。それは小さなことに思えても、できることからやる。

 「友のために命を捨てるほど尊い愛はない」(104)
  •  とても疲れていた時にお客さんが来て、今日は具合が悪くてと言っても聞こえていない様子でした。仕方がないのでずっと話を聞いて、晩ごはんも食べてもらって、次の日は会の準備で青森まで行かないといけなくて。そんな状態で弘前から汽車に乗っていた時のこと、「友のために命を捨てることほど尊い愛はない」という聖句の文字が、電車の窓から入ってきたんです。周りの人には見えていないようでした。とても不思議なことでした。――後日、この話をしたら神父さまは、「不思議というのは神の働きなんだよ」とおっしゃいました。
佐藤初女さんの別の本『いのちをむすぶ』(2016年、集英社)も紹介しておきます。初女さんの珠玉の言葉とともに、岸圭子さんが撮ったきれいな写真が多数、見事な配置で掲載されています。プレゼントするなら、こちらのほうが喜ばれるかもしれません。

JELA理事
森川博己

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【信仰書あれこれ】私の好きな牧師

渡辺善太著『宗教座談』(1939年、新生堂)をとりあげます。

本書は、1934年以降に『三田福音』、『福音』、『福音新報』という当時のキリスト教雑誌に埋め草的コラムとして書かれた二十のエッセイをまとめたものです。

以下では、最初に掲載された「私の好きな牧師」を紹介します。表現意図や使用語彙を可能な限り尊重しつつ、原文の旧漢字・歴史的仮名遣を現代表記・表現に改めて引用します。

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牧師に対する最大の要求
  • 私の考えでは、牧師に対する最大の要求は、教会の集会のうち主位にある、日曜礼拝において、本当に私の霊魂を恩寵の感激に連れ込んでくれる説教を聴かしてほしいことである。このことは私の知己の中で種々の専門を持っている人が、ほとんど例外なしに言うことである。日曜の朝こちらが敬虔なる思いを用意して、礼拝に出席して、そこで、直接には恩寵に連絡のない講演的説教を聴かされたり、説明的、講義的の事柄を聴かされたりすると、実際うんざりしてしまう。(1~2頁)

 牧師が語るべきこと
  •  結局牧師は……我々の信仰の本質の問題について語ればよいということになる。そうすれば、それを聴いた人はそれによって一週間分の霊的活力を与えられて、これをそれぞれの自分の専門の領域に応用していくから、専門でないことをしゃべってうんざりされるよりも、はるかに効果的だということになる。(2頁)

 牧師自身の祈りの生活の重要性
  •  真に聴衆を恩寵の感激に入らしむるということは、普通のことではできない。少なくとも牧師自身がその密室で真に与えられ、そして恵まれた経験から発するものでなくてはならぬ。……自分は本当に平凡だという謙虚な自己認識を持った牧師にして、初めてその密室の霊交にたえることができる……。牧師にしてこの種の説教ができれば、真の意味において神の国の建設に貢献できると思う。すなわち自分の説教の聴衆全体が、自分の説教から霊的活力を得て、それぞれの専門に応用するとすれば、牧師自身が社会的事業に駆け回っているよりも、より多くの社会的貢献をなしえるということになるだろうと思う。(3頁)

 心に響く説教を生み出すもの
  •  私は説教を聴くと、まずその説教の内容とか組み立てとかいうより、その説教者から溢れ出る霊力の如何ということにすぐに注意させられる。よく人の説教を聴いて、内容もよく、組み立ても立派であっても、ちょっとも(心に)響かない、(心に)触れないということがある。……こういう場合に痛切に感じることは、その説教者の密室生活の欠如ということである。今日までは「講壇より街頭へ」と叫ばれてきたが、今日はこれを逆にして、「街頭より密室へ」と叫ばなければならない時代であるように思う。(4頁)

 霊的深さと思索の深さ
  •  深い思索をいけないということではない。真に人が恩寵に浸る生活を送っていれば、その人の全能力、ことに頭脳は深く深く「考える」ようになって来るものと思う。そうならないのは、何かその密室生活に間違った点があるのではないかと思われる。(4~5頁)
  •  私は私の牧師に専門的な哲学の知識を持ってもらいたいとは、さらさら思わない。しかし深く考え、徹底して哲学してもらいたいと思う。いったい、霊交の体験の一つの結果は、人生に対する態度が真面目になるとともに、人生の事実に対して、真に深い洞察を持つようになるということである。哲学するということは、この意味において霊的体験の当然の結果である。説教の中で、人生の事実に対してあまりにもこれを単純に片付け、独断的に断定する浅薄さには、私はたまらない嫌悪感を感ずる。(5頁)

 信徒が自らを霊的に養える手立てを牧師は与えなければならない
  •  信者が養われるということは、教会の集会や、説教だけでは十分ではない。自分自身で養わるべき方法と材料を教会の指導者が与えてやらねばならない。……聖書……から霊的の力を得て、自分の活動の源泉にするというには、かなりの修養がいる。この意味において教会で、真の意味における聖書研究会がもたれ、そこで真の聖書の味わい方の手ほどきが与えられるならば、信者にたとえ集会の当日、用事のために出席できないことがあったとしても、自身の聖書の味読によって、その信仰生活を持続していくことができる。(6~7頁)

本書の単行本はネットでも入手困難のようですが、『渡辺善太全集 第5巻』(1966年、キリスト新聞社)に所収されています。

また、以前に本欄で、渡辺善太氏の説教集『わかって、わからないキリスト教』をとりあげています。併せてお読みいただけると幸いです。

JELA理事
森川博己

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【関連リンク】

NHKのTV番組「こころの時代」にキャロル・サック宣教師が登場します!

JELAリラ・プレカリア研修講座を12年に渡ってリードしてきたキャロル・サック宣教師(米国福音ルーテル教会)が、NHK(Eテレ)のテレビ番組「こころの時代」に登場します。


番組の放送(予定)は以下の通りです。
  • 放送日:2018年11月25日(日)朝05:00~06:00
  • 再放送:2018年12月  1日(土)昼13:00~14:00


詳しくは、NHKの番組ホームページhttp://www4.nhk.or.jp/kokoro/)をご覧ください。

どうぞよろしくお願いいたします。

【関連リンク】
リラ・プレカリア関連ニュース(ブログ)
日本福音ルーテル社団(JELA)ホームページ

2018/11/12

【信仰書あれこれ】古いものと新しいもの

森有正著『古いものと新しいもの 森有正講演集』(1975年、日本基督教団出版局)をとりあげます。

この欄では以前、森有正+加藤常昭+古屋安雄の鼎談『現代のアレオパゴス』を紹介しました。今回のものは、著者が全国5か所で行った講演集です。

以下では、1970年10月25日に青山学院で行われた講演「経験について」の一部をご紹介します。

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真実の「経験」がないことによる問題
  • 「経験」というのは、ある一つの現実に直面いたしまして、その現実によって私どもがある変容を受ける、ある変化を受ける、ある作用を受ける、それに私どもは反応いたしまして、ある新しい行為に転ずる、そういう一番深い私どもの現実との触れ合い、それを私は「経験」という名で呼ぶのですけれど、敗戦は決していわゆる本当の意味で敗戦としては経験されなかった。……大部分の国民にとってこの敗戦が本当の敗戦としての「経験」になっていなかったということ、このことについて今日いろいろな冷厳な事実が出て来て、私どもを非常にとまどわせ、多くの処置を誤らせた、ということがあると思います。このことは決して忘れてはならないと思います。(16~17頁)

 「私」とは、真実の「経験」の総体のこと
  •  その経験ということに、ある時目覚めた時に、その経験の全体が自分なのだ、それが一人の人間というものの意味なのだ、つまり、私が経験を持っていることを本当の意味で感じる、あるいは経験を持っていることを経験すると言うのはおかしいけれども、私どもの現実が実は私の経験そのものである。そして私自体である。私の言う現実は経験によって見られた事実で、主観的な現実では全然ありません。ここにマイクがある。それだけではこのマイクは私とは何の関係もないもので、ここで私がマイクを使用することによって私の経験のうちに入っているわけです。(28頁)

言葉を正しく用いるには、それが示す実体を自分で「経験」することが不可欠
  •  私どもは正直という言葉も、愛という言葉も、エゴイズムという言葉も、小学生のころから全部知っているわけです。しかし、それが何を意味するかということは、私どもの前にその実体が現れた時に分かるわけです。私どもは……平和という言葉を使うし、正義という言葉も使うし、いろいろな言葉を使うけれども、それを付ける実体を私どもは持っていますか。問題はそれですよ。……私どもは小学校の時から教わった数千、数万の言葉を定着させることのできる経験の実体というものを、私どもが持っているかどうかという問題です。それに結びつけられたものを持っていないで言葉だけをもてあそびますと、どんなことでも言えるし、どんなことでもできるわけです。その時出て来るものは限りない混乱です。(47~48頁)

 言葉の意味内容を「知る」ということ
  •  私どもは本当にいい行為を見た場合に、これが善だということが分かるわけですよ。その時に昔から何億人かの人々が使っている善という言葉を、それに付ける。その時、私自身の経験として、私自身の行為において、善というものを知ったことになるわけです。善ということの定義は何だろうか、といってカントや何かを読んでも、善ということは絶対に分からない。一つの善に、私どもの生涯において、これが善だと私どもが呼んだものに出会った時に、初めてそれが私どもに対して生きた信仰になる、生きた経験になる、また人に向かってそれが説明できるようになる。(49頁)

上記の部分は、「信仰」を考える上でも意味があります。つまり、読んだり聞いたりしただけの教義や教理を一方的に振りかざすだけでは何の力もなく、その実体に触れた言葉だけが(信仰する)自分にとっても、(証しをする)他人に対しても説得力がある、ということでしょう。生きるキリストとの出会いによって、信仰の実体は与えられるはずです。

著者が説く「経験」を理解するために有益で入手しやすい本として、『思索と経験をめぐって』(森有正著、1976年、講談社学術文庫)があります。ここには、本講演「経験について」の全文と、「経験」の真の意味を理解する助けとなる「霧の朝」「変貌」「木々は光を浴びて」等の論稿が収められています。

JELA理事
森川博己

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熊本の支援者へ感謝!「JELAくまもとの夕べ」に50人超が集う

JELAルーテル教会とも関係が深い熊本で、JELAを支えて下さる地域の会社・団体・関係者らをお招きして「JELAくまもとの夕べ」を11月9日夜に開きました。
会場の様子

会場となったルーテル熊本教会(杉本洋一牧師)には、水道町の町内会で長年JELAの「世界の子ども支援チャリティ・コンサート」へ協賛してくださっている企業の関係者ら、同じルーテルの仲間である九州学院九州ルーテル学院の方々、熊本教会の関係者、宣教師の先生方など50人超が集まってくださいました。

会ではJELAの活動を紹介しつつ、熊本とルーテルの深いつながり、水道町の地域と熊本教会の深い絆などが示され、和やかな歓談の時となりました。

来場者からは、「近所に教会があり、子どもの頃の遊び場だった」や、九州学院・九州ルーテル学院のOB・OGという方、子どもが学校に通っているなどという声が複数聞かれ、さながらルーテルの同窓会のような雰囲気でした。

JELA森下博司 理事長
ある方は「熊本は、ルーテル・キングダムだ!」と発言し、一同納得した様子だったのが印象的でした。

JELAの森下博司理事長は、挨拶に立ち「熊本のご支援者の皆様に心から感謝します」と感謝の言葉を述べました。

会の最後には、JELAからのプレゼントとしてカンボジア・グッズの抽選会が行われ、来場者から歓声があがっていました。

挨拶に立つ熊本教会の皆さん

水道町 Bon Vita (ボン・ヴイータ)の料理

カンボジア・グッズを手渡す杉本牧師(左)

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日本福音ルーテル社団(JELA)ホームページ

2018/11/08

【信仰書あれこれ】デボーションのための好著


O・ハレスビー著『みことばの糧――日々新たに』(鍋谷尭爾訳、2000年、日本キリスト教団出版局、原著1932年)をとりあげます。

著者は本書の出版意図を次のように説明します。
「ここにもう一冊の『みことばの糧』(デボーションの本)を送り出すことは、……私の家庭礼拝の経験から言えば、この種の本は時々、取り替える必要があるからです。何年も毎日、同じ本を使ったならば、しばらく休ませると良いでしょう。そうすればもう一度使い始めた時、新鮮さをおぼえるに違いありません」。(3頁)

異なる二日間に同じ聖書箇所から語られる内容を、以下にご紹介します。

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1月9日(19~20頁)
  • <聖句> この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。(ヨハネ7・17)
  • <説明> 今日ほど、ノルウェーで、多くのクリスチャンがいた時代はありませんでした。それと同時に、これほどの不信仰者のいる時代もありませんでした。わずか数十年前までには、聖書が神のことばであることを疑う人は少数でした。ところが、今日では、知的な人であろうと無学な人であろうと聖書が神のことばであることを疑う人は多いのです。……以前には疑問を持つ人が少なかったのを、特別に称賛する必要はありません。それはキリストについての神のことばを個人的に体験することなしに、社会全体がそうであったからです。……しかし、聖書は神のことばであるという一般的な気運に賛同しているからといって、魂が救われるわけではありません。とくに、聖書の権威が疑われるようになると、この立場はもろいのです。これが今日起こっているのです。
     疑いには二種類あります。一方の立場は、良心によって自分の生活が責められる時、自分のあいまいさを弁護します。一方の立場は、自分が疑っていることを悲しみ、あいまいさを断ち切って、静かな動くことのない確信に到達したいと願っている人々です。……これに対してイエスは言われます。「この方の御心を行おうとする者は、誰でも私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」。イエスは神の御心を行おうとする者は、必ず個人的な確信を得ると約束しておられます。問題は、あなたが、今すぐ神の御心を行おうとしているかどうかにかかっています。
 1月12日(22~23頁)
  •  <聖句> 同 上(ヨハネ7・17)
  •  <説明> 多くの、信仰を持たない人たちは、頭が良すぎて信じることなどできない、と考えています。しかし、それは間違っています。信仰は頭の問題ではなく、体験の問題だからです。信じないのは、まだ体験していないからです。イエスはこのような体験を、「この方の御心を行う」と表現しておられます。神の御心を行う人は、確信を得ます。(中略)たとえば、「隣人にしてもらいたいことを、隣人のために行いなさい」という戒めがあります。イエスは、この戒めを行いなさいと命じられます。議論したり、話し合ったり、……するのではなく、ともかく実行するのです。その時、今まで考えなかった新しい経験をするでしょう。まず第一に知ることは、隣人にしてほしいと思うことを、(自分は今まで)隣人にしていないということです。第二に知ることは、それを実践することは不可能であるということです。第三に知ることは、自分のうちにそれを実行する意志がないということです。それはあまりにも労苦を伴う損な行為だからです。こうして、イエスが「あなたは罪人だ」と言われる意味を理解し始めます。何が真理であり、正しいかを知っても、それを実践することをしないからです。
     そこで、神に祈ることから始めようではありませんか。……祈るとは、率直に、信頼を持って神に語りかけることです。自分が疑問を持っていることを、率直に神に語り始めましょう。また、毎日の体験していることや、今、神の御心を行いたいと願っていることも話しましょう。そうすると、短い時間のうちに、疑問に思っていたことが神の御前で明らかになっていることが判ります。また、イエスが、神の前であなたが罪人であると教えられた意味が判り、キリストの十字架が、いかに尊く、信頼すべきものであるかが判ってくるのです。
本書はノルウェー語原著から和訳されたものです。以前に同名の書籍が岸恵以氏の訳で聖文舎から出ていましたが、それはノルウェー語原著を英訳したものをさらに和訳したものでした。

 訳者あとがきにノルウェーの宗教的課題と著者の背景が簡潔に記されています。
「ノルウェーは今日まで国教会制度であるため、絶えず精神的刷新と霊的覚醒運動を必要とした。信徒説教者ハンス・ニルセン・ハウゲ<1771~1824年>はそのような意味で、今日まで大きな影響を及ぼしており、ハレスビーもまた、その流れに立つ神学者である」。(367頁)
 JELA理事
森川博己

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【チャリティコンサート】La Fontaine3公演が終了!

方波見愛さんと角本茜さんによるピアノ連弾デュオ「La Fontaine」が、チャリティコンサートを10月に3会場で開催し、集まった献金をJELAの行っている熊本被災学生の奨学金支援のために寄付してくださいました。

コンサートは、日本福音ルーテル横須賀教会(神奈川県横須賀市)、同大岡山教会(東京都大田区)、日本キリスト教団ユーカリが丘教会(千葉県佐倉市)でそれぞれ開催され、来場者数は延べ164名と、各地で好評を博しました。

頂いた献金は150,450円で、熊本地震で被災した学生のための奨学金として用いられます。

La Fontaineのお二人からは、JELAの協力に対する感謝のお便りを頂きました。JELAもお二人の尊い働きに心から感謝いたします。



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チャリティコンサート関連記事(ブログ) 
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

【信仰書あれこれ】確かな生き方のために


岩島忠彦著『いのちへの招き――確かな生き方のために』(1995年、海竜社)をとりあげます。

以前に本欄で著者の説教集を2冊とりあげました。『説教集 みことばを生きる』と『説教集 福音の記憶』です。本書も著者が教会で話した内容を書籍化したものですが、その特徴を著者は次のように記しています。
「私はここでお話しすることが、誰にとっても通じることであり、大切なことであると考えています。(中略)ここで私は、自分の頭と心と体で経験し、納得したこと以外のことについてお話しするつもりはありません」。(4~5頁)
以下では、「信仰がわが身に実現するために」と題された部分をご紹介します。

◇◆◇

神を信仰する人間がとるべき基本姿勢を著者は、イグナチオ・デ・ロヨラ著『霊操』の「原理と基礎」という部分から説明します(丸数字は著者が便宜的に付加)。
  • ①人は主なる神を賛美し、敬い、これに仕え、それによって自分の霊魂を救うために造られたのである。②そして地上にあるその他の事物(もの)は、人のために、また人が造られた目的を全うするための助けとして、造られたのである。③したがってこの目的を全うする上に、助けとなる限りその事物を用い、妨げになる限りこれを棄てねばならない。④そのため、人は、すべての事物に対して、それが自由意志にゆだねられ、禁じられていない限り、偏らない心を持つようにすることが必要で、すなわち、我々は、病気よりも健康を、貧困よりも富貴を、侮辱よりも栄誉を、短命よりも長寿を望むというようなことをせず、⑤その他万事において、ただ我々が創造された目的に一層よく導くものだけを望み、選ぶようにすることが大切である。(本書259~260頁) 

著者は上記の原理を、信仰する人間すべての「共通の鉄則」だとし、「神・人間・地上にあるその他のもの」という三者の関係を軸に論を展開します。①については、こんな感じに。
  • 「人」というのは自分以外にないわけです。みんなそれぞれ自分が「人」なのです。「私は」と考えてみないといけません。……自分は何のために造られたかということですが、まず自分自身で勝手に決めるようにはなっていないということです。(260~261頁)
  • 私という人間は神からの定義によって存在しているのです。世界の秩序も、自分の存在も、自分の心の構造も、あらゆることは自分の設計によるのではありません。ですから、それに則って自分を使わないと、自分を生かすことができません。(261頁)
  • 造られたということは、なにも昔に造られたというわけではなく、今もそうだと言われているわけです。神が自分を支えているのです。だからいつも造られ続けているのです。そのとき、自分が何を目的に、ここに存在するのかというと、この世のものを目的にすることはできなくなっているのです。(261頁)
  • アウグスチヌスは「神は私たちの重力」という言い方をしています。自分がどんな状態であれ、「神は私の重力」であるから、「私はそこに憩うまでは決して安らぐことがない」と。……どこにあってもその力は働く、常にそこに向かうところのそれは、実はこの世のものではない、……と。ですから、それ(=神)を賛美し、敬い、それに仕える、という言い方をしています。(261頁)
  • 小さな自己満足とか、いろいろな些細な喜びとか、虚栄とか、生活の奢りとか、そういうもので自分を満たしきることはできない。……一生ずっと、自分のパートナーにできるものは神様しかいない。そこに自分の生きる焦点を合わせない限り、本物になれないように人間はなっているのです。(262頁)
  • そういうところに焦点を合わせた時、自分が生きていることに喜びを感じるようになります。生きていることに平和を感じることができるようになります。結局、本来の秩序というものに溶け込み、自由を感じることができるようになると思います。(262頁)
  • 「神を賛美し、敬い、これに仕える」。自分の存在が神に波長を合わせていくようになるならば、その存在自体が神への「賛美」になっていきます。なにも教会へ行って賛美歌を歌わなくてもいいわけです。(262頁)
  • あるいは、「敬う」とは、奢った人間であったらだめだ、ということです。俺は何かできるのだとか、自分がいなければ駄目だとか、そんなことではありません。必ず神を思っていることが敬うということです。人は、自分は空しいものだという、根本的に地べたに跪いている姿勢を持っているときに初めて、自分が何であるかがわかる、つまり神に向かっているということなのです。(262頁)
  • さらに「仕える」とは、そこに気づいて実際の生き方として、仕えるという言葉に代表される「行動」に移っていって初めて、本物だということなのでしょう。(263頁)
  • 人は「自分の救いを全うするために」生まれた。人は救われる必要があるのです。けれど救われるというのは、自分自身の無秩序、無軌道から、本来の姿に辿りつくこということ、それ自体が救いです。(263頁)

本書135~219頁(洗礼・堅信・ゆるしの秘跡)は、著者の近著『キリストへの道』(2017年、女子パウロ会)に転載されています。本書が入手困難になったためでしょう。私としては、最終章(221~269頁)こそ転載してほしかったところです。

JELA理事
森川博己

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2019インド・ワークキャンプ 申し込み締め切り迫る!

CRHP代表のRavi氏とShobha医師
2019年のJELAインド・ワークキャンプ(期間:2月9~19日の11日間)の申し込み期間が迫ってきました。

申し込み締め切りは、2018年11月26日(必着)です。

インドのマハラシュトラ州ジャムケッド村にある医療福祉施設Comprehensive Rural Health Project (=CRHP=総合的地域健康プロジェクト)で義足作りのボランティアを体験してきませんか?現地の子ども達との交流もあります。

日々の聖書の学びや分かち合いで信仰的にも成長できます! 皆さんのお申込みをお待ちしています。

申し込みの詳細は、こちらをご覧ください。
http://jelanews.blogspot.com/2018/09/2019.html



2018/11/02

【信仰書あれこれ】神より神へ

以前に、ペトロ・ネメシェギ著『キリスト教とは何か』を本欄で紹介し、大変評判がよかった(と勝手に推察します。<笑>)ので、同じ著者の別の本をとりあげます。『神より神へ』(1968年、聖パウロ女子修道会、ユニヴァーサル文庫71)です。

書名についてこんなエピソードが記されています。著者は幼少の頃、夏休みに叔父の家によく行き、家の正門の前にそびえたつ巨大な菩提樹に心を魅かれました。そして、枝が天に向かって幾重にも伸びている一方で、太い根が何本も地に張っていることに気づきます。その大切な記憶とともに成人した後、オリゲネスの書物に「父なる神は根である」という言葉を発見します。「天にまします我らの父よ」として、以前は神というと上に向かうことばかり考えていたのに、神が万物の根でもあり、すべての出発点でもあると知らされるのです。そこで、根より大空へ、つまり「神より神へ」という表現で我々の存在を表わすことがふさわしいと書名に採用したようです。(本書1~3頁を森川が自由に要約)

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究極的な源泉
  • 神の言葉と秘跡の二つは、私たちがキリスト者として生活する上の根本的源泉であります。しかし、こう言っただけでは、私たちはまだ究極的源泉にまで遡ってはいません。神の言葉や秘跡が、私たちの生命の源泉となるのは、それらを通してキリスト自身が私たちに出会うからです。……私たちはみな、「キリストから出発し、キリストへ向かっています」。キリスト者は自分の生活のすべてがキリストから出ることを深く理解していなければなりません。しかし、……最も究極的な源泉は、父なる神であります。……父なる神は慈しみ深い愛の永遠の決定により、この世を作り、その中心にキリストを置き、私たちをキリストの兄弟とし、この世のいっさいのものを唯一のかしらであるキリストのもとにまとめられるのです。(3~4頁)

キリストが与える最大の賜物
  • キリストが私たちに与えられている最大の賜物は、聖霊ご自身であります。「聖霊の賜物を受ける」という表現が聖書の翻訳によく見られますが、それは原文を正しく訳したものではありません。「聖霊という賜物」と訳すべきです。聖霊こそ賜物なのです。恵みには神と区別された賜物ももちろんありますが、主要な賜物は聖霊ご自身です。聖霊は心の中に太陽のように現存し、聖霊を受けた人の心は徐々に照らされます。蝋に印が刻まれるのと同じように、聖霊は人間の心の奥底にご自身の本性を刻み込まれるのです。私たちの心を徐々にキリスト化していくこと、これこそ復活したキリストの最大の賜物である聖霊の働きです。聖霊の勧めに従って考え、感じ、行動し、それに反するすべての思いを遠ざけることは、私たちキリスト者に課せられた使命であります。(17頁)

本来的な信仰
  • 信仰は、人間が自分のすべてを、啓示する神にゆだねる、全面的な自己奉献であるときにのみ、信仰のあるべき姿をとります。……全面的な自己奉献を伴わない信仰は、長続きしません。そして少なくとも何らかの形で神との出会いを望まないならば、信仰は全然成り立ちません。そこから、一口に信仰と言ってもどれほどの段階があるかということが分かります。信仰は一定の教義を受け入れるか受け入れないかという頭の問題だけではありません。人は頭だけではなく心で信じます。信仰は人の心の中でますます深められていくべきものです。(28~29頁)

聖霊の光による信仰
  • 人間理性だけを働かせて信仰に至ることはできません。このことを聞いて驚く人がいるかもしれませんが、キリスト教の教えによりますと、神の啓示を信ずるためには、キリストを通して与えられる恵み、信仰の光と言われている聖霊の恵みがどうあっても必要です。……福音書の中でいろいろな表現をもってはっきり教えられています。ヨハネ福音書の六章に、「父によって引き寄せられる人でなければ、誰ひとり私のところに来ることはできない」(6・44)というキリストの言葉が書かれています。また、パウロはコリント前書で、「聖霊によらなければ、誰もキリストは主であると言うことができない」(12・3)と言っています。……信ずることが正しいことであり、神が私たちに期待しておられることだと、私たちは聖霊の光を受けて理解するのです。(35~36頁)

信仰は毎日のこと
  • キリストはご自分が信仰(される)に値することを、十字架上でご自分の命を犠牲にし、私たちに近づくために復活することによってお示しになられました。私たちはキリストにおいて示された神の誠実さに全き信頼を置いて、信仰の暗闇の中に飛び込んでいきます。それは一生に一度限りのことではなく毎日のことです。私たちは朝ごとに、「主よ、私は今日も信じます」と言わなければなりません。(39頁)

全10章の中の「源泉」と「信仰」の章から一部を引用しました。他は「真心からキリストに従って」「聖体」「キリストの十字架」「復活」「喜び」「聖霊」「愛」「永遠の生命」という章立てです。いずれも大変に読みごたえがあります。

JELA理事
森川 博己

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【信仰書あれこれ】科学・哲学・信仰

村上陽一郎著『科学・哲学・信仰』(1977年、第三文明社、レグルス文庫73)をとりあげます。

著者は科学哲学の泰斗であり、カトリック信者です。自分の専門領域とキリスト教との関係について何冊か著しています(『近代科学と聖俗革命』『科学史からキリスト教をみる』など)。その中で本書は、もっとも一般向けではないかと思います。

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本書執筆の意図・立場
  • 信仰という問題について通用しているある種の誤解だけは解いておきたいという願いが、私の中に燃えていた……その一つは、文明史的に見た時のキリスト教と科学の双極化であった。キリスト教を、科学的真理の弾圧者として歴史の中に仕立て上げるという一つの文明史の啓蒙主義的図式は、私にとってはやはり誤解としか思えなかった。……もう一つの誤解は、……人間の営為としての知的活動と信仰との双極化の問題であった。(180~181頁)
  • 私は、何はともあれ、ローマ・カトリック教会の一員である。しかし、その私の私的な信仰の立場は、本書ではできる限り前提として立てることはしなかった。本書は決して一つの信仰の立場を優れたものと断定するものでもなければ、そこへ他人を勧誘するものでもない。私が本書で意図したのは、個人がいかなる信仰を持つにせよ持たないにせよ、その信仰より以前に考えておくべき点を明らかにすることであった。(181~182頁)

ガリレオが太陽中心説に与した宗教的背景
  • ガリレイ事件の印象があまりに強いために近代合理主義と自然科学は、その登場からキリスト教に対する否定の契機を持って始まったという誤解が生まれたと言ってよい。だが第一に、近代科学の礎石を築いた人々が、キリスト教信仰に否定的感情を抱いていた、という例は、ほとんど絶無と言ってよい。例えば当のガリレイ自身がそうである。ガリレイは、カトリック教界の内部に完全に喰い込んでいて、例の異端審問事件の蔭の教皇ウルバヌス八世は、彼のかつての学問上の弟子バルベリーニその人であったほどだが、こうしたガリレイのカトリック教界内での「成功」の一部には、ガリレイ特有の処世術があったことは確かである。(61~62頁)
  • ガリレイは、結局は彼自身を断罪の危険にまで追い込むことになった主著の一つ『天文対話』……を書く動機の一つとして、プロテスタントの世界では一般的になりつつあったコペルニクス体系が、カトリック教界内部でも決して否定されてはいないことを証明しようとしたこと、言いかえれば、宗教改革運動の開始から約百年、ようやくカトリック、プロテスタント両者の教義的な再編成と収拾活動期にあって、当初コペルニクス(彼自身が完全にカトリック教会の一員であった)説がカトリック側から推賞・歓迎されたのに反し、ルターを始めとする多くのプロテスタントがこれを激しく非難・攻撃していた状況が逆転し、アリストテレス的自然学の枠組みに依拠し続けようとするカトリック神学の中でコペルニクス批判が一つの勢力として印象づけられ始めていく一方で、プロテスタント側が、コペルニクス説を旧体制批判に政治的に利用しようとする時代を迎えて、カトリック内部のガリレイが、カトリックを擁護しようとするという目的が、その動機に込められていたと言われる。(62~63頁)

神・自然・人間の関係
  • ヨーロッパ近代の自然科学技術を支える思想の中に、キリスト教の構造が相当部分含まれている……。第一はこの自然が神の作品であり、人間が神の似像≪imago Dei≫として神の理性の模型であることは、人間が少なくともある程度自然の神秘を理解できないはずはない、という確信がそれであった。ケプラー、ガリレイらはもちろん、デカルトライプニッツらの純然たる近代合理主義思想においても自体はまったく変わらなかった。スピノザの「神はすなわち自然である」≪Deus sive natura≫という言葉は、それを語って余りある。(77頁)
  • 第二には、理解された自然という前段の過程の上に立って、人間の住処として与えられた自然をよりよく改良していこうとする支配・制御の感覚であった。そしてこの支配・制御の感覚の中には、第三のキリスト教的な(*森川挿入:開始と終点を持つ直線的な)時間構造も絡んでくる。この第二と第三の局面は、どちらも非常に鋭く「世俗化」を志向するものであって、通常は、ヨーロッパ近代精神がキリスト教の枠組から離脱したことを証明する顕著な現象として受け取られることが多い。しかし……それは必ずしも「離脱」ではなく、構造自体は変わることなく、表層部の交代変化があったとも考えられる現象なのであった。(77~78頁)

理解の助けとして、著者の別の新書『新しい科学論――「事実」は理論をたおせるか』(1979年、講談社ブルーバックス B-373)もお勧めします。初版発行から40年近く経った今でも絶版になっていません。発行時に読んで大変触発された本です。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

最新の機関紙「ジェラニュース47号」電子版を掲載しました

皆様にJELAの活動をお伝えする機関紙「ジェラニュース47号」の電子版をホームページにアップいたしました。印刷版は発送済です。ホームページからは「ジェラニュース」創刊号からのバックナンバーもご覧いただけます。

なお、お手元に「ジェラニュース」が届いている方で、ホームページで読めるなら送付の必要がないという方は、電話03-3447-1521、ファクス03-3447-1523またはメールjela@jela.or.jp(件名欄に「ジェラニュース不要」と記す)でJELA事務局にご一報いただければ幸いです。

【ジェラニュースの送付停止のために教えていただきたい情報】
  • 郵便番号
  • ご住所
  • お名前(フルネーム。用いる漢字などもお知らせください)
  • お電話番号

【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2018/11/01

【お知らせ】森川博己が退職、11月1日より渡辺薫がJELA事務局長に

森川前事務局長(左)
JELAの森川博己事務局長が、10月31日に定年退職を迎え、11月1日から渡辺薫職員が事務局長に就任しました。

森川事務局長は、1999年から約20年間に渡り、JELAの難民支援などを中心に事業をけん引し、2008年に事務局長に就任してからは、JELAの将来あるべき姿を求めて、宣教事業・教育事業・福祉事業の発展に尽力しました。



また、森川事務局長の功績として、JELAの公益活動の一部を支える不動産賃貸事業の分野で不動産管理を委託している株式会社ハリファックス・アソシエイツとの良好な関係を構築しました。退職に際しては、同社の代表者らがJELAを表敬訪問してくださいました。
シニア マネージング ディレクター
のジェイムス R. フィンク氏(手前左端)と、
代表取締役の
リチャード ヴァン ローイ氏(手前右端)

渡辺新事務局長
11月1日からJELAは渡辺薫事務局長のもと新体制となりますが、これからも引き続き、ご支援の程どうぞよろしくお願いいたします。

2018/10/23

【信仰書あれこれ】簡潔ながら深いキリスト教入門書

ペトロ・ネメシェギキリスト教とは何か』(1977年、女子パウロ会)をとりあげます。


「生きる意味を求める人に! イエススの生涯と死と復活の教えるものは、『神は愛であり、愛を信じる者は永遠に滅びない』という一語に尽きる。簡潔ながら、深くキリスト教の真髄をとらえた書」(本書のカバーそで)です。本書ではイエスを「イエスス」と表記します。

◇◆◇

キリスト教は常に追求すべきもの
  • キリスト教徒たちは、キリスト教が何であるということを一応知ってはいます。しかしなお、キリスト教とはいったい何であるか、キリスト教の本質とは何であるか、自分にとってキリスト者であるということの意味は何かとは、つねに新たに問い続けなければならない問題なのです。……キリスト教は子どもでさえ理解することができるほど単純な本質のものでありながら、最もすばらしい学者が生涯をかけて追及しても、なお知り尽くすことができないほど無限の深みを持ったものだからです。(5~6頁)

普遍的なキリスト教理解
  • 本書はキリスト教に関する単に主観的な解釈を書いたものではなく、キリストに由来し、全世界に広がっている普遍的な教会……のキリスト教理解を述べようとしています。なぜなら、キリスト者たちの信仰は、およそ個人的な企てではなく、はじめにイエススを信じた弟子たち、彼らの跡を継ぐ信徒たち、世界中の普遍的な教会をなしている「神の民」の信仰に自分の心を合わせるということだからです。(7頁)

キリスト教に関する正しいアプローチ
  • キリスト教の真髄は、キリストと呼ばれているイエススその人のうちにあります。ですから、もしだれかが、キリスト教とは何であるかということを知りたければ、イエススがだれであるかということを探り、なぜ人々はこのイエススをキリストと呼んでいるのかということを調べ、このイエスス・キリストが何をなしたのか、その身の上に何が起こったのかということを調べてみる必要があります。(8頁)

神の恵みと人間の決断
  • 結局、信じることは神の恵みによることです。けれども、それは同時に人間自身の決断でもあります。イエススの言葉を聞いても、奇跡を見ても、聖霊の光を受けても、「信じます」と決断しなければ、信仰は生じません。ですから、信仰者とは、両手を開いて抱きしめようとしておられる神の腕の中にとびこんで、抱きついていく人と言えます。(73頁)

秘跡は心からそれを信じなければ無意味
  • 真心からの信仰なしに、形式的、あるいは偽善的に秘跡を受けても、それは人間を救うものでは決してありません。新約聖書全体が信仰こそ救いの源であるということを強調しています。人間は信じるときにのみ、自分だけに頼る高慢を捨て、人をゆるしている神の愛に、自分のすべてをゆだねるのです。そのときにこそ、人間の心が自分を神の子とする神の恵みを受け入れるように開かれるのです。(110~111頁)

神の恵みの働き方
  • 自分が洗礼を受けることを神が望んでおられると知らなかった人々にとっても、キリストと聖霊を通して働く神の恵みの神秘的な業のおかげで、改心と救いは可能です。すなわち、だれの心にも神がよしとされたときに働く聖霊のささやきに従って、万物の根底に限りない慈しみがあることを信じ、愛のために良心的に生きようと決心し、その決心を自分の生活の中に実現しているすべての人は、救いへの道を歩んでいると言うべきです。しかし、神はやはり、人々がイエスス・キリストにおける神の限りない愛の啓示を信じ……キリストの愛と喜びの証人として、他の人々を失望から解放し、希望と喜びと愛へ導くように努めるということを望んでいるのです。(113~114頁)

互いに赦し合うことの絶対的な大切さ
  • 次のことを決して忘れてはなりません。つまり、神からゆるしを受けることの条件は、互いにゆるし合うことだということです。イエススは繰り返し、「もし人の罪をゆるすなら、あなたたちの天の父も、あなたたちをゆるしてくださる。しかし、人をゆるさないなら、あなたたちの父も、あなたたちの罪をおゆるしにならない」(マタイ6:14、15)と強調しました。……毎日、「われらの罪をゆるしたまえ」と、神に祈っている人であってはじめて、心から自分を傷つけた人の罪をゆるすことができるのです。(124頁)

著者はカトリック司祭で上智大学神学部教授を長らく務めました。著作には、聖母文庫「キリスト教信仰案内講座」シリーズや、編集・解説を担当する創文社「キリスト教古典叢書」シリーズがあります。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【奨学金】理事長らがアジア学院「収穫感謝の日」イベントを訪問

毎年JELAは、栃木県那須塩原市にあるアジア学院(ARI)で学ぶ学生を支援しています。ARIは、主に発展途上国の農村指導者の育成を行う専門学校で、現在、JELAの奨学金で、インドネシアからの留学生 クラオディウス・ブディアントさんが学んでいます。10月13・14日にはARI「収穫感謝の日」というイベントが開かれ、13日にJELAの森下博司理事長と渡辺薫職員が現地を訪問しました。
11月の帰国を控えて、クラオディウスさんは、本職である牧師として牧会に励みながら、ARIで培った農村開発の知識を用いつつ、地域に必要とされる働きをしたいと夢を語ってくれました。
JELA森下理事長(左)とクラオディウスさん
感謝礼拝は、学生たち、学院スタッフ、来場者が一体となって、賛美歌とともに学院内の農場などを練り歩き、収穫をもたらす恵み深い神様に感謝をささげることから始まりました。これは、クラオディウスさんのアイディアで、今年初の試みだったそうです。

また、礼拝では、日本語の「いただきます」は、本来、自分の所有ではないものを受けるという、食物を与えてくれた存在に対する畏敬の念を表す言葉であることが語られました。日本のキリスト者は、日々の食卓につく時、この短い『いただきます』という6文字をも信仰のことばとして口にすることができる、という気づきを与えられる訪問となりました。

【信仰書あれこれ】誰もが後世に残せる最大のもの



本作品は、明治27(1894)年に箱根で行われたキリスト教徒夏期学校において、内村鑑三が青年信徒向けに話した講話です。『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』と並んで、内村の最も有名な作品の一つでしょう。

本作品の「改版に付する序」で著者は次のように振り返ります。
「本講演は明治27年、すなわち日清戦争のあった年、すなわち今より31年前、私が33歳の壮年であった時に、海老名弾正君司会のもとに、箱根山上、芦ノ湖のほとりにおいてなしたものであります。(中略)この小著そのものが私の『後世への最大遺物』の一つとなったことを感謝します。……過去30年間生き残ったこの書は今よりなお30年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。(本書8~9頁)

講演内容のいくつかを以下に引用します。ちなみに引用文の後のページは、冒頭に記した教育出版の本のそれです。文章は内村鑑三全集からとられていて、妙なところにカタカナが登場したりしますが、そのまま引用します。

◇◆◇

清い欲
  • 私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかな天国に往き、私の予備校を卒業して天国なる大学校に入ってしまったならば、それでたくさんかと己の心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起こってくる。すなわち私に50年の命を与えてくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、この我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。……何も後世の人が私を褒めたってくれいというのではない。私の名誉を残したいというのではない。ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである。すなわち英語でいうMementoを残したいのである。(16~17頁)
  • 有名なる天文学者のハーシェルが20歳ばかりの時に彼の友人に語って「わが愛する友よ、我々が死ぬ時には、我々の生まれた時よりも世の中を少しなりともよくして往こうではないか」と言うた。……我々が死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つ事業を成し遂げて、できるならば我々の生まれた時よりもこの日本を少しなりとも善くして逝きたいではありませんか。(18~19頁)

神の国のために金を儲け使う
  • 金を儲けることは己のために儲けるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神が我々の中に起こらんことを私は願う。そういう実業家が今日わが国に起こらんことは、神学生の起こらんことよりも私の望むところでござります。(中略)金は後世への最大遺物の一つでござりますけれども、遺しようが悪いとずいぶん害をなす。それゆえに金を溜める力を持った人ばかりではなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。(27~30頁)

誰もが遺せる最大の遺物
  • 事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、モノを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。……私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも残すことができる最大の遺物があると思う。(中略)人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚な生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。(62~63頁)
  • 高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、……すなわちこの世の中はこれは決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。(63~64頁)

残り20ページが本講演のハイライトなので、ご自分でお読みになることをお勧めします。本作品は岩波文庫『後世への最大遺物・デンマルク国の話』として手軽に入手できます。

JELA事務局長
森川 博己

【ジェラニュース】第47号をただいま編集中です

11月発行予定のジェラニュースの編集・レイアウト作業に入りました。以下のような記事が掲載されます。

◇◆◇

<こんな記事が掲載されます>
  • 米国ワークキャンプ2018 参加者レポート
  • 15回世界の子ども支援チャリティコンサート実施結果・来場者感想集
  • 定年退職記念特別インタビュー(前事務局長×ひろみん)
  • ジェラハウス改築へのご寄付に感謝
  • 新事務局長あいさつ
ほかにも、、盛りだくさんの内容です。


◆◇◆

 ジェラニュース(フルカラー)は年3回(春・夏・冬)発行しています。JELAの活動をわかりやすく掘り下げて取り上げ、 ホームページやブログでは伝えきれない情報も満載です。

 創刊号からのバックナンバーは以下リンクからご覧いただけます。
バックナンバー「ジェラニュース」一覧

 印刷された「ジェラニュース」をご希望の方は、下記までご連絡ください。
 【メール】 宛先:jela@jela.or.jp

・件名に「ジェラニュース希望」と明記してください。
・住所(郵便番号、アパート等の場合は建物名と部屋番号もお願いします)
・氏名(フルネーム、よみ方もお書きください)
・生年月日(月・日だけでも結構です)
・電話(携帯電話も可です)
・希望部数
・クリスチャンの方は所属教会をお教えいただければ幸いです。

※電話・FAXでも受け付けています。
電話:03-3447-1521
FAX:03-3447-1523

なお、お送りいただきました個人情報につきましては、JELAの案内等にのみ使用させていただきます。

【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2018/10/22

【信仰書あれこれ】生けるキリストとの出会いの大切さ


金田福一著『召され行く友に *家庭霊想集6』(1992年、一粒社)をとりあげます。

本書は、著者が末期がんの病床で書きためた短い霊想を集めたものと、死の2年前に行った講演を収録したもので、著者の家庭霊想シリーズの最後の作品です。

以下では、「ルターに学ぶキリストの福音」と題された講演(1990年11月18日 キリスト教浦和集会にて)の一部をご紹介します。

◇◆◇

著者は複雑な家庭環境で育ち貧乏生活を体験しました。福音を伝えたい思いに強くとらわれはするものの、小学校卒の学歴ゆえ神学校に入れませんでした。体も弱く仕事を転々とし、ようやく伝道者として用いられるのは46歳になってからです。2012年2月にガンで天に召されますが、死を間近にした苦しみだけの病床でも、口をついて出るのは「主よ! 感謝します! アーメン!」だったと言います。

ルターと聖書だけが慰めの少年時代
  • 自分の幸いだけしか求めない人間は、自分に打ち克つことはできない、自分の弱さを引きずりながらでも、他に仕えようとして生きるならば、自分の罪も赦され、自分の罪も克服されてゆくのだ、そういうことを私は身をもって教えられました。そういう悩み多い少年の日に、ルターだけが慰めでした。文学も好きでした。音楽も好きでした。けれども私の心の底に一番深く慰めを与えてくれたものは、聖書とルターでした。……ルターは信仰義認ということだけがとりあげられていますけれども、その大前提となっていることは、キリストが復活した、キリストが生きておられる、生けるキリスト、ということです。(144~145頁)

私のところに来てくださったイエス
  • なぜ私を守ってくださらないのですかと、神様を恨んだことがどれだけあるかわかりません。しかしイエス様に近寄っては物騒、つかまっては大変だと思いました。そういう私のところに、イエス様は来てくださいました。来てくださったということは、罪があるまま、何の値打ちのないまま、何度となく裏切る、ユダは立ち返らなかったが、私は泣いて立ち返りました。そういう人間をひと言もお叱りにならないで、イエス様は受け容れてくださいました。(146頁)
  • イエス様に出会って、イエス様が来てくださって、愛の中に、贖いと罪の赦しの中に入れられて、罪は終わりましたか。いいえ、人間の罪は死ぬまで残ると私は思っています。特に愛の欠落は罪の根源です。しなければならないことをなし得ない罪、またいつの間にか傲慢になります。自己義認、自己満足、そういう罪は死ぬまで残ると思います。イエス様の愛と支配の中で罪認識は深化するのではないか、深められるのではないか、それが罪の潔めではないか、それがルターの考えであったと思います。(147頁)
  • 生けるキリストとの出会い、それはもうルターの信仰と思想の根底にある重大な問題です。キリストが生きておられる、そのキリストと会わなくてどうしますか。今日の日本のキリスト者にとって根本的な問題は、やはり生けるキリストとの出会い、そのことが教会において、集会において起こっているのか、もしその出会いが無いならば、その信仰は何なのでしょう。……その信仰は自力に過ぎないのです。生けるキリストに会わなければ、自己を義としてやまない、自我と主観の円周から脱出することができないからです。生けるキリストに出会わなければ、自己自身から解放されない、自由になれない、私はそのことを私の体験からあえて申し上げます。(157~158頁)

イエスに出会った後の状態
  • イエス様に出会いますと、イエス様は自我の円周の中に暮らしていた私たちを、その殻を破って引っ張り出してくださいます。それが新しき我、霊的な我、義とされた我であると思います。そしてそのように迎えられ抱かれた新しく生まれ出たキリスト者は、まだ残れる自分の罪、肉的な、まだ悪習慣の残っている自分、あるいは周囲の悪影響で逆戻りしようとしてやまない、そういう罪への可能性の残っている自分という者を、客観的に見ることが始まります。それが罪と義の同義体験です。それを言い換えますならば、自己の客観化であると言うことができます。さらに言い換えますと、神様が自分をご覧になる目で厳しく、まだ残っている自分の肉性、肉的な自分というものを批判し弾劾することができ、教えることができるのです。(149頁)
  • 神様の目をもって、まだ残っている自分を鋭く見ることができる、鋭く悔い改めさせることができるその厳しさ、己に対する厳しさ、それが謙遜なのです。(152頁)

「霊想集」の中に収められた数行ごとの霊想は、いずれも心にビンビン響く内容です。著者が書かれたものはいずれも、信仰的に大切な事柄を歯に衣着せぬ形で提示してくれる点で貴重です。

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

【チャリティコンサート】La Fontaineが熊本支援のためにコンサートを開催

10月3日のブログでもご紹介した、JELAの熊本支援のためにチャリティコンサートを開催してくださっているピアノ連弾デュオ「La Fontaine」が10月21日に、日本福音ルーテル大岡山教会(東京都大田区)で今年2公演目となるコンサートを開きました。

会堂は満席となり、パイプ椅子をいくつも出さなければならないほどの盛会となりました。La Fontaineのお二人は息の合った演奏で、中田喜直の「日本の四季」など一時間ほどのプログラムを披露し、聴衆を魅了しました。
 
 
 JELAの関係者も来場し、お二人の働きに感謝の言葉を述べました。
La Fontaine角本さん・方波見さん(両端)とJELA森川事務局長

巡演の最後となるコンサートは、10月28日(日)午後2時より、日本キリスト教団ユーカリが丘教会(千葉県佐倉市)で予定されています。お近くの方はぜひ足をお運びください。

【関連リンク】   

2018/10/17

【信仰書あれこれ】すべてを新たにしてくれる生き方


ヘンリ・ナウエン著『すべて新たに――スピリチュアルな生き方への招待』(日下部 拓訳、2009年、あめんどう)をとりあげます。

訳者あとがきが本書の意義を簡潔に示しています。
「どんな分野であれ、真のプロフェッショナルは、難しい専門用語を多用して聞き手を煙に巻いたりせず、シンプルな表現と分かりやすい例えで、その分野の内容を誰にもわかるように説明できるものです。その意味でナウエンは、霊性=スピリチュアリティに関する真のプロだと申せましょう。(米国で1981年に)初版が発行されてから、(この訳書が出る2009年で)すでに28年の歳月が経っていますが、ナウエンのメッセージは、発行された時の新鮮さを今なお持ち続けています。」(100頁)

2018年の今も古びない本書の内容は、以下のようなものです。

◇◆◇

執筆の動機
  • 霊的な生き方を解説した素晴らしい本は数多くありますが、短時間で読むことができ、かつ霊的な生き方とは何かを説明するだけでなく、「実際に自分がそんな生き方を始めてみたい」と思わせる冊子があっても悪くないと感じていました。そんな気持ちから、この本を書くことにしたのです。ここにまとめた思索の数々は、私自身だけではなく、すでに多くの人たちによって述べられていますが、この本で一つにまとめることで、「生活は目いっぱいにもかかわらず、心は満ち足りていない」と感じている方たちのお役に立てればと願い、また祈ります。(9頁)

対象読者
  • 本書はまず、スピリチュアルな生き方をもっと深めたいという強い衝動を認めながらも、実際にどうすればよいか、どの方向に進むべきかを見失って困っている人たちのために書きました。それはすでにキリストを知ってはいても、その知識を頭から心へと、しっかり定着させたいと強く望んでいる人たちのことです。(12頁)

内容と構成
  • 本書での考察を三部に分けました。第一部では、思い煩いというものが、いかに日々の生活に破壊的作用を及ぼすかを述べます。第二部では、私たちを金縛りにする思い煩いに対し、新しい生き方、すなわち、神の霊によってすべてが新しくされる生き方をイエスが提示し、このことにどう応じられたかを示したいと思います。最後の第三部では、私たちを縛りつける思い煩いの縄目を少しずつゆるめさせ、神の霊によって新たに作り変えていただくための具体的な修練を、いくつか述べることにします。(14~15頁)

思い煩いの本質とイエスの招き
  • 今日において思い煩うとは、忙しく過ごし、多くの心配を抱えながらもつまらなさを覚え、恨みを抱き、抑うつ感に圧しつぶされ、しかもひどく孤独であるということです。
    (中略)イエスは、私たちが本来いるべき場所へと連れ戻そうとしてくださいます。けれども、そのスピリチュアルな生活へと招く声は、自分の居場所のなさ、思い煩う姿を正直に告白し、そのことで日常生活がバラバラであることを認めることができて初めて、聴き取ることができます。その時こそ、真にいるべき場所への私たちの願望が深まります。(34~36頁)

神の国と神の義を求める
  • 思い煩うばかりの私たちへのイエスの応答は、……「生活の重心を変えなさい、注意を向ける中心を移動しなさい、そして優先順位を変えなさい」ということです。……この、心の持ち方を変えることこそが、すべてのことを変えるのです。たとえ、すべて見た目には変わらないようであってもです。これこそが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」<マタイ6・33>という言葉の意味することです。……私たちの心を神の国に置くとは、私たちの内にあり、間におられる神の霊に導かれる生活を、私たちの日々の考え、口に出す言葉、すべての行いの中心に据えることです。(41~43頁)

イエス的「真理」
  • イエスは聖霊を送ってくださり、そのことを通して、神と共にあるまったき真理へと導いてくださいます。ここで真理というのは、思想、概念、あるいは教理のことではなく、真実な関係という意味です。真理へと導き入れられるとは、イエスが御父との間に持っておられる関係へと、私たちも導き入れられること、つまり聖なる婚姻の関係に入ることです。(54頁)

本欄でこれまでにとりあげたナウエンの作品は『あわれみ――コンパッション――ゆり動かす愛』と『イエスの御名で――聖書的リーダーシップを求めて』です。他にも多数の作品が日本語で読めます。

JELA事務局長
森川 博己

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