2018/08/17

【信仰書あれこれ】みことばを生きる(その2)

先日紹介した岩島忠彦著『説教集 みことばを生きる』がとてもいいので、もう一つ、別の説教もご紹介します。

とりあげるのは、「悔い改めの季節」(ルカ福音書3章1~6節)という題の、教会歴では12月の待降節第二主日の説教です。

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待降節というのはクリスマスを前にして、「信者があらためて主イエス・キリストを自分の内にお迎えし、その恵みと平和にあずかることができるように準備する季節です。そのため、私たちは少し立ちどまり、自分が巻き込まれている日々の生の営みを客観的に眺めて見る必要があります」(本書150頁)。

引用される聖書箇所の終わりの方で預言者イザヤの次の言葉が出てきます。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」(新共同訳聖書ルカ3:4~6)。

さらっと読むと何も感じないような箇所かもしれませんが、著者はこの部分を次のように説明します。
  • 「谷」も「丘」も私たちの心の中にあります。……私たちが持っているさまざまな問題、悩み、くったく、ディレンマ、性格的弱さ。これらと私たちは日々やっきとなって格闘しています。私の内なる深い「谷」。(150頁)
  • 「丘」――それは私たちの持っている自負心。仕事、野心、自己開発。この世に生きている限り、何かを実現したい。どうしてもこれだけはやり遂げたい。他の人に先んじたい。ここでも、「私」がフル回転して自分が疲れ気味になってしまう日々。(150頁)
  • 「主の道を整える」とは、自分のしゃかりきになっている心の扉を主に向かって開く余裕を持つということです。そのとき、ある意味で「谷」は埋められ「丘」は平らとなり、「神の救い」をいただくことがわかるでしょう。(150~151頁)
  • 福音は「罪のゆるし」「悔い改め」の必要を説いています。……罪というと何か具体的な悪しき行為、良心のとがめ、できれば見たくない自分の歪みといったことだけを連想しがちです。でも聖書の罪とは、的はずれという意味だと言われています。自分だけの力に頼って、神様に目を向けない――生き方・心の持ちようの的はずれ。私たちがやっきになって生きようとすればするほど陥りがちな傾向。これに対する回心が折々必要なのでしょう。(151頁)
  • 私たちが少し冷静になり、神さまに希望の目を注ぐなら、慰めの霊が私たちの心を満たすことでしょう。……自分の生の営みの中で、自分自身よりもっと大切なことがある―-私にとってもっと大切なものは自分より神さまだ。これに気づいたとき、私たちは心の自由をもって自分の人生と取り組んでいくことができるでしょう。(151頁)

待降節にこんな説教を聞けるのは恵みですが、待降節だけでなく、「折々に」このような話に耳を傾け、自分の力に頼りがちな自らの姿勢をただし、神さまに目を転じることができる日々は、なんと祝福に満ちたものでしょう。本書の一つひとつのメッセージから、そのような思いが確かに伝わってきます。

JELA事務局長
森川 博己

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