2018年6月28日

【信仰書あれこれ】アウグスチヌスの教え方

アウグスチヌス『教えの手ほどき』(熊谷賢二訳、1964年、創文社)をとりあげます。同社から出ている「キリスト教古典叢書」(上智大学神学部編、ペトロ・ネメシェギ責任編集)の一冊です。

本叢書は十五前後の作品で構成されています。アウグスチヌスとオリゲネスの著作が多く、前者が3冊(ポシデウスによる伝記を含めると4冊)、後者が6冊です。アウグスチヌスの恩師であるアンブロジウスの『秘跡』も含まれていて貴重な叢書です。

『教えの手ほどき』は紀元後400年頃に書かれた、アウグスチヌス41歳の時の作品で、彼はその時点で10年間、司教職にありました。本書は、ある助祭の求め応じ、キリスト信者になろうとして初めて教会を訪れた人々に、キリスト教信仰の手ほどきをどのように与えるのがよいかを示したものです。(本書1~2頁)

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本編は110頁と短いのですが、その前後に、責任編集者ネメシェギ氏による緒言(全12頁)と詳細な注(全33頁)が付いています。

本文の構成は、「本書を著した動機」「キリスト教について話すときの原則」「聴衆の学識に応じた話し方」「教理を教える人自身が喜びをもって教える方法」「初心者に聖書全体を語る具体例(長いもの)」「同左(短いもの)」となっています。
  • 目次そのものが中身を表わしているので、いくつかを以下に示します。(本書13~14)
  • いちばん重要なことは、教理を教える人が喜びの心を持って教えるには、どうすればよいかということです
  • 教理教授者は、救いの歴史を総括的に述べ、万事において愛をめざすようにしなければならない
  • キリストが来られたのは、神がどれほど人を愛しておられるかということを知らせるためでした。この愛の招きに応じましょう
  • 相手の話を契機として話を始めなければならない
  • 愛という目的をめざして、世界創造から現代にいたるまでの歴史について話さなければならない
  • (話している者自身に)倦怠感が起こる六つの原因と、それを取り除く方法
  • 聴衆の多様性に従って、話は変わってくる
こんな具合です。目次の大切さを教えられます。

本文には以下のような記述が出てきます。愛の教父、アウグスチヌスの面目躍如です。
  • いちばん重要なことは、教理を教える人が喜びの心を持って教えるにはどうすればよいかということです。その人の言葉は、その人の持つ喜びに比例して上手なものとなるからです。(25頁)
  • まず「はじめに神が天と地を創造された」<創世記1:1>と聖書に書かれている出来事から始めて、現代の教会までの歴史全体について初心者に教えるなら、そのとき話は完全なものとなります。……これらを総括的に全体的視野のもとにとらえ、聞く人に楽しみを与え、また歴史上特に重要な時代に起こった、注目すべき事柄だけを選び、話すようにしなければなりません。……我々は万事において、おきての終極目標である、「清い心と、よい良心と偽りのない信仰から生じる愛」<第一テモテ1:5>を目指さなければなりません。そして、我々の語るすべての言葉をそこへ向けなければなりません。……話して教えている人々の注意も、この愛の方へ向け、導かなければなりません。(26~27頁)
  • キリストがこの世に来られたのは、おもに、神がどれほど人を愛しておられるかということを人に知らせ、そして人に、自分を先に愛してくださった神への愛に燃え、神の命令と模範に従って隣人を愛さなければならないことを知らせるためでありました。神は、自分の隣人でなかった人間、自分から遠く離れ去っていた人間を愛することにより、その人間の隣人となられたのです。(中略)あなたは、この愛を自分の目的とし、あなたの話すすべてのことをこの愛に向けなさい。あなたは話すときにいつも、相手が聞いて信じ、信じて希望し、希望して愛するようになるよう話さなければなりません。(33~35頁)
本叢書で読めるアウグスチヌスの別の作品は『カトリック教会の道徳』と『主の山上のことば』です。どちらも興味深いです。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年6月27日

【信仰書あれこれ】高価な恵み・安価な恵み

ディートリッヒ・ボンヘッファー著『主に従う(上)』 (岸千年徳善義和訳、1963年、聖文舎。原書は1937年発行)をとりあげます。

著者は、ナチにより39歳で絞首刑に処せられたドイツの牧師・神学者。

以下では、「高価な恵み」と「安価な恵み」を含む、彼の神学の一部をご紹介します。

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自分を含めた説教者への戒め
  • あまりにも「教義的」に説きすぎて、「生に向かって」説教することがあまりにも少ないのかもしれない。……聖書の特定の思想を喜んで繰り返し語りながら、その際、他の重要な言葉をあまりにも無頓着に見過ごしているのかもしれないし、それどころか、いつも、自分の意見や確信をあまりにも多く説教し、イエス・キリストご自身を説教することがあまりにも少ないのかもしれない。(3頁)
イエスに完全に従うことがイエスとの真の交わりに導く
  • イエスの戒め全体、すなわち、無条件的に従うことへの召しが存続するところにおいて、はじめて、人々をイエスとの交わりへと完全に解放することが可能となるのである。イエスの戒めにひたすら従う者、イエスのくびきを逆らわずに自分の身に負う者、その者にとって、自分が負わねばならない重荷は軽くなり、彼はこのくびきの穏やかな圧力のなかで、疲れることなく正しい道を歩みゆく力を受けるのである。……イエスは、実行しうる力を我々に与えることなしには、何をも我々から要求したまわない。(5~6頁)
安価な恵み
  • 安価な恵みは、悔い改めのない赦しの説教であり、教会的訓練のない洗礼であり、罪の告白のない聖餐であり、個人としての懺悔のない赦しの宣言である。安価な恵みは、主に従うことを要しない恵みであり、十字架のない恵みであり、人となりたもうた生けるイエス・キリストのない恵みである。(12頁)
高価な恵み
  • 高価な恵みは、畑に隠された宝であり、そのもののためには、人は行って持っている物をみな喜んで売ってしまうのである。……それは、キリストの主としての支配で、そのためには、人は自分をつまずかせる眼を抜き取るようなものである。それは、イエス・キリストの招きであって、それに応じて弟子はその網を捨てて、主に従うほどのものである。高価な恵みは、常に繰り返して求められねばならない福音であり、祈り求められねばならない賜物であり、叩かねばならない戸である。……それは、価の高いものである。というのは、人にその生命を払わせるからである。それは、恵みである。というのは、それは、そのようにして初めて人に生命そのものを与えるからである。……「あなたは、高い値段で買い取られた」というように、神にその御子の生命を支払わせたから、……神にとって価の高いものは、我々にとって安価ではありえないから、高価なものなのである。……それは、イエスに従えとの恵み深い招きとして、我々に出会う。(12~14頁)
ルターと高価な恵み
  • ルターは、この恵みが彼に生命を要求したし、なお日々、要求することを知っていたのである。なぜなら、彼は恵みによって主に従うことから免除されたのではなくて、そこで初めて、いっそう主に従うことへと突き進まされたからである。……ルターの門人たちは、それを文字通りに反復した。ただし、ルターがいつもわかりきったこととして考えていたこと、すなわち、主に従うこと……を、いち早く捨て、それを思いもせず、語りもしなくなったという、たった一つの違いがあった。(21頁)
主に従うこととキリスト教
  • 主に従うということは、キリストに結びつくということである。……キリストについての理念、教理体系、恵み、あるいは、罪の赦しに関する一般の宗教的知識は主に従うことを必要としない。いや、実際にそれを締めだしてしまい、主に従うことに敵対する。……生けるイエス・キリストのないキリスト教は必然的に、主に従うことのないキリスト教としてとどまり、主に従うことのないキリスト教は、いつも、イエス・キリストのないキリスト教である。それは、抽象観念であり、神話である。(37頁)
本書の後半では「山上の説教」について詳しく語られます。私は本書を、キリスト教古書専門店の友愛書房(神田・神保町所在)で最近見かけて購入したため、セットで置かれていなかった「下」がどういう内容かわかりませんが、「上」だけでも、内容が濃すぎるほどの本です。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年6月26日

【難民支援】仏・独の難民保護活動を視察し、帰国後に100人で話し合う

3月末から4月はじめにかけて、JELAとNPO法人WELgeeは、共同でフランスおよびドイツへの視察旅行を実施しました。対象は、難民に関わる活動を展開している様々な企業・団体です。

その報告会を6月9日に開催しました。会場となった恵比寿ガーデンプレイス内のイベントスペースには日本人の学生や社会人が90名以上来場し、関心の高さが伺えました。

報告では、仏独で行われている次のような取り組みを紹介しました。難民と企業との間を取り持ち、難民の就職を後押しする働き、難民が調理を担うケータリングサービス、難民にコンピュータのプログラミング技術を教える学校……、日本の難民支援ではなかなか見られないユニークな働きが多く、来場者も感心した様子で発表を聞いていました。

報告会の昼食は、チュニジアの難民の方によって母国料理が振る舞われ、一同舌鼓を打ちました。百人分の料理は、前日にJELAホールのキッチンを利用して、上記の難民とWELgeeのスタッフやインターンが、一日かけて用意したものです。

昼食後にはイベントの第二部として、難民の方々と対話するワークショップをしました。最初に8人の難民申請者が自分の夢や希望について語り、そのあと発表者ごとに日本人参加者を加えたグループを作り、その夢の実現のために何が必要か・何ができるかを話し合いました。難民の方々は自分の思いを真正面から投げかけ、日本人の参加者は難民の方々が抱えている課題や、秘めている可能性を直接知ることができ、双方にとって有意義な機会となりました。



【関連リンク】   



【熊本地震被災者支援】今年の支援対象学生に会ってきました

面談する森川事務局長
2016年4月の熊本地震以降、JELAが行う被災学生の学費支援は今年で3年目になります。

2018年度は熊本所在の複数の学校に通う中学・高校・大学生13名に合計300万円を支援いたします。熊本地震に関連した支援は今年で終了予定ですが、3年間の支援金合計は900万円であることを、感謝とともにご報告いたします。

今回の支援金は、ルーテル学院同窓会ルーテル市ヶ谷教会の「LOVE」コンサートなどからの献金、全国17か所で開催中の「世界の子ども支援」チャリティコンサートの席上献金、宮城県在住のお一人の方から頂戴した多額の寄付金など、多くの方のご厚意と、信仰に裏付けされた愛の行為に支えられたものです。


6月21~22日、JELA事務局長の森川博己と職員の渡辺薫が熊本に赴き、支援対象学生やその保護者の方とお会いし、支援内容をご説明いたしました。 被災学生の皆さんは、勉学に真面目に取り組み、部活動や余暇の時間を楽しんでいることや、将来の夢を語ってくれました。
生徒にインタビューする森川事務局長と渡辺職員


このようなお一人お一人を支援できること自体がJELAの喜びであることをお伝えすると、みなさんの緊張がとけたようで、その後はより親しく会話する時となりました。一人当たり20分前後の面談でしたが、お互いの出会いを今後も大切にしていければと思っています。

多くの方のご支援・ご協力によって、熊本地震被災学生支援が三年間に渡って出来ましたことを改めて感謝いたします。

2018年6月25日

【信仰書あれこれ】ニコデモの新生

多田富雄『残夢整理――昭和の青春――』(2010年、新潮文庫)をとりあげます。

本書は信仰書ではなく、著者の長めのエッセイを集めたものですが、「ニコデモの新生」と題する40ページ余りの話に日本福音ルーテル京都教会と当時の小泉牧師が登場するので、ご紹介することにしました。

著者は『免疫の意味論』大佛次郎賞を受賞した免疫学の泰斗。文章も上手で、『独酌余滴』日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。昭和天皇の「殯葬の礼」(ひんそうのれい)に出席した経験が語られる『残夢整理』の後書きは、たった数ページながら大変読み応えがあります。

本書は著者最後の作品でしょう。「残務整理」の「務」が「夢」になっているのは、この世を去るにあたって、印象の深さからか夢に見ることが多くなった知人・恩師のうち、整理して書き残しておきたい6人について語られるという内容だからです。

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著者は茨城県の田舎の出身で、千葉大学医学部で学び、内科の教室でしばらく修練したあと郷里に戻り、町医者を継ぐ予定でした。ところが、変り者の病理学者が大学に赴任してきます。この岡林篤教授の頑ななまでの学者魂に魅かれて、その免疫関係の実験を手伝うことになります。

単純作業を一年以上繰り返し、ようやく成功例があらわれたのに、それに続く結果がさっぱり得られず、著者は退屈至極です。思い余って岡林先生のところに行き、やっている実験には再現性がないと苦情を述べ立てると、先生は次のように反応します。
  • 「自分の目で見たというのに、君はまだそんなこともわからないのか。100パーセントの兎にそんな難病が起これば絵空事ではないか。個体差があってなかなか起こらないからこそ真実なのだ。人間でも膠原病になるのは百万人に数十人だろう。それと同じだ」とうそぶいていた。
「ところで君は、聖書を読んだことがあるか」
「いいえ。ありません」
「わたしもクリスチャンではないが、時々目を通す。この間面白い話を読んだ。ニコデモのキリストとの問答だ。信じること、疑いを持たないことに関することが書いてあった。いつか読んでみたまえ。ヨハネ福音書の3章だ」と言い残して、すたすたと去っていった。私はまたはぐらかされたと思って、失望してしまった。(176~177頁)
  • 先生がどうしてこれを言ったのか、そのときには私は分からなかった。後にこれが私に対する重大な教えであったことに気づいた。そのときは、「肉は肉より出で、霊は霊より生まれる」というのを、なんと感動的言葉かと思っただけだが、先生の真意は別なことにあった。それに気づいたのは、先生がお亡くなりになってからのことであった。(178頁)
その後、岡林先生のキリスト教との関わりは、以下のように深まります。
  • そのころ先生は、宗教上の悩みを持っていたらしく、「多田君、こんな本を知っていますか。もし読んでいないなら読んでみなさい」と北森嘉蔵の『神の痛みの神学』を貸してくださった。……先生はご自分の独自の学説を、この神学者のそれと対比して考えていたのかもしれない。……「腸(はらわた)の痛み」とか「神は腸でさえ痛む」という意味のところに、何度も傍線が引かれていたのを覚えている。先生が頭で神の愛を信じようとしていたのではなく、フィジカルな痛みを共有する神を感じていたのではないかと思われる。それが真実であったことは、先生がある朝、ご自分から京都ルーテル教会に赴き、洗礼を受け、キリスト教に入信されたという逸話でもわかる。(193~194頁)
  • 先生はその後体調を崩され、病床に就いた。……平成7年の2月には京都府立医大に入院された。……同年の3月に逝去された。……告別式でルーテル教会の小泉牧師によって、ヨハネ福音書の第3章1~12節が読み上げられたことを聞いた。(194~195頁)
上で登場した岡林篤氏は、紫綬褒章を受章し、個性ある科学研究に与えられる藤原賞にも輝かれたそうです。JELC京都教会に集われていた頃のご様子などを知りたいものです。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年6月19日

【信仰書あれこれ】ロビンソン・クルーソーとキリスト教

近藤勝彦氏(元東京神大学長)の最初の説教集『中断される人生 ― キリスト教入門』(1989年、教文館)をとりあげます。

本書に含まれた「あなたの願いと神の願い」と題する説教の中でロビンソン・クルーソー が登場します。興味深いのでご紹介します。

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神の願い
  • みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろうと聖書に書かれています。(中略)聖書が示している神様というのは、悩みの時には自分のことを呼んでくれ、自分を無視するな、自分がいない様な仕方で悩み続けるなということを願っておられるということです。聖書の神様は、悩みの時にはわたしを求めておられるということで、それは神様の願いがそこにあるというふうに言ってもよいと思うのです。ですから、悩みの時に、あなたの願いとすることを祈れということです。「主よ」と呼ぶということは「祈る」ということです。願いを祈りにせよ。祈りに変えよ。あなたの願いを祈りで表わせというふうに、聖書の神は求め、願っておられるということだと思います。(118~119頁。下線は原文では傍点)
ロビンソン・クルーソー漂流記とキリスト教。
  • 『ロビンソン・クルーソー漂流記』は、誰もがよく知っている物語だと思います……これは子供向けの冒険小説と思われていますが、実はそれだけではない。後半には「摂理論」など、いろいろ神学的な議論が出てくるのです。(120頁)
ロビンソン・クルーソーと聖書
  • ロビンソン・クルーソーは絶海の孤島で実に20年間を過ごすことになるのですが、これはちょうど旧約聖書のヨセフがエジプトの地下の牢獄で、その青年期、人間形成の決定的な時を、13年間過ごすのと非常によく似ています。そこでヨセフを支え、その極貧の環境で彼を人間として成長させたのは……「主が共にいた」ということだ、と聖書は語っています。ロビンソン・クルーソーの場合もそうで、支えは「祈り」なのです。それは……詩篇50篇15節と関係しています。(120頁)
  • 島に漂流して間もなく、彼は病気の発作に襲われます。熱病なのですが、その中で、かねて船から持ち出していた荷物の中にあった聖書を取り出して来て、……「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」という詩篇の一句を見つけるのです。……原文のまま引用しますと「私は生まれて初めてひざまづいて、神に、悩みの日に呼べば救って下さるというその約束を守って下さるように祈った」とあります。そしてさらに、悩みの日というのは病気の時だけではない、それ以外に自分が神から離れた生活をしている日々のことだと知るようになります。そして、強調符号をつけて、「神は私を救って下さったが、私は神を讃えなかった」、私は深く動かされて、直ちにひざまづいて、病気がなおったことを、声をあげて神に感謝した。そして、「ダビデの子イエスよ。私を悔い改めさせて下さい」と叫び、「この時私は一生のうちで、初めて本当の意味で神に祈った」と書かれています。これが絶海の孤島に生きるロビンソン・クルーソーの人生の一大山場であり、彼がその孤独の中で生きることができた理由だと作者は語っているのです。(120~121頁)
最初に信仰が与えられ悔い改めに導かれる瞬間、私もこのような「山場」を体験しました。それが時の経過とともに神との関係が希薄になり、悪い意味で習慣化してしまい、神に対して真剣な叫び声(祈り)をあげようとしない時が訪れる。このような生半可な信仰生活を省みる契機がロビンソン・クルーソー漂流記に秘められているようです。全編読むべきかもしれません。

近藤氏は1994年9月付の「『日本伝道出版』の発足に際して」という短文の中で、「カール・バルトのように神学し、ビリー・グラハムのように伝道したい」と記しています。その言葉どおり、近藤氏の説教集はいずれも力強く励ましに満ちたものです。

JELA事務局長
森川 博己

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アメリカ・ワークキャンプ2018】 参加者説明会を東京・熊本で実施

オリエンテーションの集合写真 東京
JELAは毎年夏、アメリカの青少年向けキャンプ「グループ・ワークキャンプ」に、日本から若者を派遣しています。現地のキリスト教青少年向け書籍出版社「グループ社」が、米国各州や周辺国で数十年前から毎年開催しているキャンプです。

一週間のキャンプでは、貧困や老齢のために自宅の修繕が困難な人のために、ペンキ塗り・大工仕事などのボランティアに従事し、キリストの愛を示す形で奉仕の心を培います。入念に企画されたプログラムを通して、神様や聖書について体験的に学べるキャンプです。

昨年度の参加者の感想文はこちらをご覧ください

今年は、13名の参加者(うち1名は去年に引き続き参加)が与えられ、6月16・17日の二日間、東京と熊本でオリエンテーションを行いました。

東京のオリエンテーションはJELAミッションセンター1階ホールを会場に、9名の参加者とその保護者、同行スタッフ3名が集まり、キャンプの日程・内容・心得・注意点などについて確認しました。

英会話レッスンの様子
初めての試みとして、英語のレッスンを組み込みました。JELA上級顧問で日本人学生に英語を教えた経験のあるローウェル・グリテベック氏が講師となり、約1時間に渡って英語コミュニケーションンの練習をしました。

自己紹介にはじまり、いくつかの質問を交えた会話の糸口となる方法や、握手の礼儀作法など実践的なものでした。はじめは小さな声だった参加者らも、後半になると積極的に会話を楽しめるようになりました。

熊本でのオリエンテーション参加者
熊本のオリエンテーションは熊本教会を会場に、4名の参加者と保護者3名が出席しました。4人全員が初めての参加なので少し不安そうでしたが、JELAからの説明などを聞いて、楽しみの方が増したように見受けられました。現地に滞在中の短期宣教師のスコット・カルズニーさんも加わり、英会話を教えました。

今年は7月25日~8月7日の日程で、ホームスティをオハイオ州で行い、ペンシルベニア州のキャンプに参加します。全員が無事に帰国できるよう、お祈りいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

英語レッスンの様子

2018年6月18日

【信仰書あれこれ】宗教改革から現在までの興味深い学び

深井智朗著『プロテスタンティズム――宗教改革から現代政治まで』(2017年、中公新書2423)をとりあげます。

本書は最近、読売・吉野作造賞を受賞しました。政治・経済・歴史・文化の各分野における優れた論文および評論を顕彰する賞です。以前に「吉野作造賞」が存在し、政治学者・吉野作造の業績を記念して中央公論社が1966年に創設したのですが、同社が読売新聞社の傘下に入ったため、2000年からは読売論壇賞と統合して「読売・吉野作造賞」に改編されました。

「吉野作造賞」と「読売・吉野作造賞」の過去の受賞作には、永井道雄『大学の可能性』、松山幸雄『日本診断』、西部邁『経済倫理学序説』、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』、青木保『「日本文化論」の変容』、山内昌之『ラディカル・ヒストリー』、野口悠紀雄『バブルの経済学』、遠藤乾『統合の終焉――EUの実像と論理』などがあります。

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深井氏の受賞のことばの一部をご紹介します。(『中央公論』7月号、186~187頁)

  • 制度としての「宗教」はどのような場合でもその時代の社会の影響を受ける。そのため「宗教的コンテクスト」もその時代の「社会的コンテクスト」と切り離して考えることはできない。逆に「宗教的コンテクスト」は特定の時代の「社会的コンテクスト」を形成する大きな要素になっている。だからこそ両者の相関関係を考えることが重要である。
  • 目に見える具体的な現象や既存の社会システムを理解するには、「目に見えない」部分としての宗教の考察、あるいはそれとの相関関係の発見が重要だ。今日再び注目を集めるようになった「地政学」は、そのひとつの試みであろう。
  • プロテスタントと呼ばれるひとつの宗教があるのではなく、その中にまったく性格の異なった集団が混在し、特に国家との関係でまったく異なった考えを持つ二つの流れがあり、それが今日のアメリカやヨーロッパの社会の深層を形成している。この構造を読み解くことが現代社会にとっても重要なことではないかというのが拙著の隠された主張である。


選者7名の選評のいくつか(内容の一部)もご紹介します。(上掲書、189~191頁)

  • ルター以降のプロテスタントの歴史を新書一冊に収めるだけでも大変なのに、そこに明治期日本のプロテスタント受容の意味も扱った技量は並々ではない。……戦後の日本は、政治・経済・文化・学問のどれをとっても、良し悪しは別として米国の大きな影響下におかれてきた。その意味でも、日本理解の一手段としてプロテスタンティズムの歴史を知っておくことは意味深い。その手がかりになる良書といえよう。(山内昌之・東京大学名誉教授)
  • プロテスタンティズムの変遷をたどり、教会と国家、個人の信仰と教会のあり方、救済をめぐる考え方の違いがドイツ、イギリス、アメリカなど国家の間、あるいは宗派間の相克をもたらした事情を解き明かしたのが本書である。ビジネスの成功者こそ「祝福された者」というアメリカ的美談の背景も、ここから読み取れる。トランプ時代のアメリカ社会や、エルサレム問題など混迷を深める国際情勢を考察するうえでも、貴重な知見を与えてくれる。(老川祥一・読売新聞グループ本社取締役最高顧問)
  • わずか200ページ強の新書の中に、500年の長い歴史と、広い世界が詰まっている。といっても、駆け足の年表的叙述や無味乾燥な概論ではない。「アメリカの投票日はなぜ火曜日なのか」「アメリカの企業はなぜアカウンタビリティを重視するのか」といった興味深いエピソードを交え、平易な筆致で楽しく深く解き明かす。プロテスタンティズムの歴史と精神を知っておくことは、世界を読み解き、日本の将来を展望していく上で欠かせない。プロテスタンティズムの理解が進んでいない日本で、第一人者による万人向けの決定版としての本書の意義は大きい。(大橋善光・中央公論新社代表取締役社長)


「信仰書あれこれ」欄で以前に深井智朗氏の本を二冊とりあげました。『伝道』と『信仰のメロディー』です。いずれも読みやすく、中身の濃いものですが、それらはどちらかというとキリスト信徒向けでした。本書は、より広い読者を対象に書かれたものです。

本書に示された「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」という捉え方、それぞれの特徴などは、信徒も十分に知っておくべきかと思います。本書は知的刺激に満ちており、充実した読書体験を与えてくれる一冊です。

JELA事務局長
森川 博己

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【信仰書あれこれ】読むことが祈りとなる聖書の読み方

来住英俊著『目からウロコ 聖書の読み方――レクチオ・ディヴィナ入門』(2007年、女子パウロ会)をとりあげます。

著者による祈り方のやさしい手引き書「目からウロコシリーズ」が十種類刊行されていて、本書はその中の一冊です。80頁に満たない薄い本ですが中身はユニークで、聖書を読むこと自体が祈りである、ということを実践するためのよい手引きになっています。

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レクチオ・ディヴィナ (=ラテン語)のレクチオは「読むこと」、ディヴィナは「聖なる」という意味です。

著者は聖書を読むことと祈りとの関係ついて、次のように説明します。

  • 現代人にとっては、聖書を読むことそのものが祈りになるということは理解困難になってしまいました。……祈りの「準備」、あるいは「材料」として聖書を読むと考えている人が多いのではないでしょうか。(本書8頁)
  • 「静かな時間を取って神の声に耳を傾けましょう」という勧めがありますが、こういう祈りは簡単なようで、実は最も難しいものです。何か仲立ちになるものがあって、それに触れればとにかく祈りになる。そして、深めていけば、いくらでも深くなる。こういうタイプの祈りのほうが続けやすいと思います。代表的なものはロザリオの祈りですが、レクチオ・ディヴィナもその一つです。(8~9頁)
  • ディヴィナ(divina聖なる)という形容詞がついているのは、聖書を読むからだけではありません。神について何かを知るためではなく、神ご自身と出会うために読むからです。(10頁、下線=森川) 


その実践方法として、著者は以下のような「技法」を説明します。(10~26頁)

  • 非常にゆっくり読む。
  • 歯がゆいほどに時間をかけて反芻し、徹底的に自分の栄養にする。
  • 一つひとつの言葉に「さわる」ように読む。
  • 一つひとつの単語に丁寧にさわりながら、ゆっくりと一つのセンテンスを読む。
  • すべての言葉にさわりながら(一つひとつのことばで少しずつ止まる)、すべてのセンテンスを読む。
  • 同じ箇所を何度も、行きつ戻りつしながら読む。
  • その箇所を初めて読むような、新鮮な興味や驚きの心で読むように努める。
  • 勉強ではないのだから、参考書や注解書を片付け、聖書だけに集中して読む。


上記の説明のあと著者は、新約聖書の「善きサマリア人」の箇所を例に、10頁に渡って具体的に読み方を示してゆきます。

ここまで読んで、レクチオ・ディヴィナや本書について興味を持たれた方は、実物をお読みになることをお勧めします。得るところの多い本です。

最後に、以下の注意を記しておきます。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年6月12日

【チャリティコンサート2018】前半6会場分のまとめ

第15回世界の子ども支援チャリティコンサートでは、真野謡子さん(ヴァイオリン)と松田弦さん(ギター)による演奏をお届けしており、各地で好評を博しています。

これまでに、日本福音ルーテル岡崎教会、沼津教会、挙母教会、保谷教会、甲府教会、清水教会の6会場で実施し、累計328人の方々にご来場いただき、35万円以上の献金を頂きました。会場関係者の皆様、ご来場者の皆様のご協力とご支援に、心から感謝申し上げます。

頂いた献金は、熊本地震で被災した学生の学費支援のために用いさせていただきます。

コンサートにお越しいただいた方々からは、以下のような声を頂戴しています。
  • もったいない素晴らしい演奏でした。
  • 間近で迫力のある音が聴けて楽しかったです。
  • ギターのやわらかい音色とバイオリンの澄んだ音色がとてもマッチしてステキ!!でした。ありがとうございました。
  • お二人のトークもよかったです。
  • 質の高いコンサートでした。ローラン・ディアンスやピアソラなどモダンな曲もあり楽しめました。チャリティの目的もすばらしいです。
  • 生の演奏のすばらしさを堪能しました。
残り11公演の日程・会場については、こちらをご覧ください。ぜひお近くの会場に足をお運びいただき、素晴らしい音楽に触れ、同時に熊本の被災学生の支援のためにお力添えをいただければ幸いです。

2018年6月11日

【信仰書あれこれ】自由意志か奴隷的意志か

マルティン・ルター『奴隷的意志』(中央公論社『世界の名著18 ルター』1969年 、所収。「中公版」として引用)をとりあげます。全訳は『ルター著作集 第一集7』(1966年、聖文舎。「聖文舎版」として引用)で読めます。訳はどちらも山内宣。

ルターは本書について後年、『教理問答書』と並べて自分の正当な書物と言っていることから、ここで展開する神学に並々ならぬ自信を持っていたと推察されます。(聖文舎版8頁)

本書は内容的にかなり難しいものの、ルター神学の深さが感じられる点で貴重な一冊です。以下の引用文を読んで頭の体操をされるのも一興かと思います。本編の数頁毎に登場するルターの毒舌は強烈で、気性の激しさがうかがえます。

◇◆◇

恩恵の助けによる場合にのみ「善」の選択が可能となる
  • エラスムス の言うところでは、自由意志とは「人間の意志の力」であり、この力は、それによって人間が己の能力と理解を超える事柄へと導かれるものである神の言葉とわざとを、自分自身で、欲したり欲しなか
    ったりすることができるものである。(中略)教皇派神学者たちが、あるいは彼らの父であるペトルス・バルドゥスが教えていることのほうが、これよりはるかに我慢のできるものだ。彼らは、自由意志とは識別の能力であり、次に、選択の能力であって、その選択の能力も、もし恩恵が臨在すれば善を選択し、反対に、恩恵を欠けば悪を選択する能力である、と言っており、アウグスチヌスとともに、明らかに、自由意志は、自発的な力では堕落すること以外はなしえず、「罪を犯す以外のことには役立たない」と考えているのである。それゆえに、アウグスチヌスも『ユリアヌスを駁す』第二巻で、「自由というよりは奴隷というべき意志」と言ったのである。(中公版194頁上段~195頁上段)*下線(=森川)が本書の表題の出典。

隠されている神の御旨に対して求められる人間の態度
  • 神は、自らのみ言葉をもって自分自身を規定してはおられずに、むしろ、自由に一切の上に自らを留保しておられる……神は、ご自身のみ言葉をもって私たちに示しておられない多くのことをなしたもうし、また自ら欲していることを、み言葉をもって示しておられない多くのことを、欲せられるのである。……神はみ言葉においては罪人の死を願いたまわない。しかしながら、かの究めがたいご意志においては、罪人の死を欲したもうのである。(中略)ただ神のうちには、究めつくしがたいご意志があるということを知るだけで十分であろう。だが、そのご意志が何を欲し、何ゆえに欲し、いかなる範囲で欲するかというようなことを求めたり、願ったり、気づかったり、あるいはこのことに触れようとしたりすることは、まったく許されていない。逆に、許されているのはそれをただ畏れ、崇めるべきことのみである。(中公版204頁下段~205頁下段)

人間の理性はご都合主義
  • 人間の心の卑劣なことを見るがいい。神が値しない者を功績がなくとも救いたもうとき、いや、多くの失行にも関わらず不敬虔な者たちを義としたもうとき、人間の心はそれを不正として神を弾劾することをせず、これが彼自身の判断によれば、極めて不正なことであるのに、神が何ゆえにこのようなことを欲したもうたかを知ろうと求めないで、このようなことが自分にとって好都合で歓迎すべきことであるので、それが公正で善だと判断する。しかるに、神が(罰に)相当しない者を罰したもうときは、それが自分にとって不都合であるので、これは不正であり、我慢ができないことだとして、理由を求め、不平をつぶやき、涜神を行っているのである。(中公版227頁上・下段)

神は全知全能であり、神においては何事も予め定められている
  • 神の義が人間の頭脳によって義だと判断されるようなものであるなら、そんなものは確かに神の義ではなく、人間の義と何ら異なるものではない……神は真実にして唯一でありたもうがゆえに、そしてまた、神の全体は究めがたく、人間の理性をもっては近づきがたいがゆえに、神の義も究めがたいということは、当然である。否、必然である。(中略)神が一切を予知し、前もってそれを定めていたもうということが真であると私たちが信じるなら、そのとき神は、その予知と予定において、誤ることも妨げられることもできず、かつ、神ご自身の意志によるのでなければ何事も生じないということになる……したがって、同時に理性自身の証言によって、自由意志なるものは、人間のうちにも、天使のうちにも、あるいはいかなる被造物のうちにも、ありえないことになる。(中公版254頁上段~258頁上段)

論争そのものについては、金子晴勇著『宗教改革の精神――ルターとエラスムスとの対決』(1977年、中公新書462 。最近、講談社学術文庫で復刊)という一般向けの本があります。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年6月6日

【ブラジル音楽ミニストリー報告】ペンテコステ礼拝で音楽発表会とファッションショー

JELAが支援するブラジルの音楽ミニストリーに関する最新報告が届きましたのでご紹介します。報告者は徳弘浩隆牧師です。
 
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5月20日は教会のペンテコステ(聖霊降臨祭)礼拝。この日は、毎年サンパウロのメンバーとジアデマのメンバーが一緒に集まって礼拝をします。

去年の2月から急に増えたジアデマの音楽教室の子どもたちも、今年なら連れていけると思い誘いました。ポスターを印刷して貼っていたら「センセイ(みんな私のことをそう呼びます。中には名前と思ってる子も)、こんど遠足があるの?」「サンパウロにバスで行くの?」と目ざとく見つけた子たちが興奮気味に聞いてきます。

「そうだよ。向こうの教会のみんなと一緒に礼拝するんだ。音楽の発表会もちょっとあるよ。いい子にするって約束守れたら行けるよ。」と言うと、大喜び。保護者用の申込書を配ると、その日の終わりにはみんな大切そうに持って帰ります。ほかのお手紙とかを配っても置き去りにしていくことが多いのに、今回は違うようです。

音楽教室の最中に家に戻って保護者のサインをもらってくる子や、「弟も連れて行っていいってお母さんが言うから、申込書もっとちょうだい!」と走って戻ってくる子もいました。

「遠足」に行く子どもたちは15人ほど。ジアデマの教会メンバーも入れると20人少しになりました。マイクロバスを借りて、教会メンバーの車と一緒にサンパウロに行きました。

礼拝では、この3月まで日本で研修を受けていたメロ先生が日本語とポルトガル語で説教をしました。サンパウロ教会の聖歌隊、音楽教室の大人の生徒のリコーダー演奏、礼拝後に大人と子どもの生徒のピアノ発表もありました。
礼拝後の発表会で演奏するナタンくん(左端)

ジアデマのマテウス君にも頼んでみると、恥ずかしそうです。みんなからマテウスコールが起こると頭をかきながら前に出てきて、練習中の「きらきら星」を弾いてくれ、拍手喝采でした。ナタンも練習中のゴスペルソングを弾いてくれました。

サンパウロの音楽教室の子たちもピアノを弾いてくれましたが、日系人、ブラジル人、ブラジル移民の中国人のお子さんもいて、まさに各国語が飛び交うペンテコステでした。

昼食後は「日本体験ファッションショー」をしました。「着物、浴衣コーナー」を二階に作り、子どもたちを連れて行きました。初めて見る日本の着物。照れながら、楽しそうに着てみています。それなりに簡単に帯を結んであげて、みんながデザートを食べている中庭への階段を下りて、ファッションショーです。

教会メンバーも大喜び。スマホを出して写真を撮ってくれました。私も盛り上げなければと奮起して、男性が着てもいいような着物(ほんとは女性用だったらしいですが)に帯をして、木刀を腰に差してみると、みんな大喜びです。
「日本体験ファッションショー」を楽しむ一同
照れて逃げて行った子もいましたが、集まった子で礼拝堂で記念写真もとりました。ピアノを弾いたマテウスは忍者のポーズです。よく見ると……私の着物はバザー用の値札が付いていました。

帰り際には、「よく来たね。音楽教室も頑張ってまた来てね」と、教会の長老の方に頼んで、日本製のキャラメルを一箱ずつお土産として渡してもらい、子どもたちはバスに乗ってジアデマに帰っていきました。

とても楽しい「遠足」でした。今後とも、よろしくご支援、お祈りをお願いいたします。



徳弘浩隆

ペンテコステ礼拝に参加したサンパウロ教会とジアデマの皆さん

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【チャリティコンサート2018】清水教会で生演奏の魅力を堪能

第15回世界の子ども支援チャリティコンサートの第6公演を、5月27日に日本福音ルーテル清水教会(静岡県静岡市)で開催しました。

夏を先取りしたような陽気のなかで、60名の方にご来場いただきました。真野謡子さん(ヴァイオリン)と松田弦さん(ギター)は、ほぼ満員となった会場で堂々たる演奏を披露し、聴衆を魅了しました。
ご来場者からいただいたアンケートでは、「生演奏が間近で聞けてよかった」といった声が寄せられ、コンサートホールでの演奏とはまた違う、教会でのコンサートの魅力を再認識させられました。





2018年6月4日

【信仰書あれこれ】説教と説教者

D・M・ロイドジョンズ『説教と説教者』(小杉克己訳、1992年、いのちのことば社)をとりあげます。ロイドジョンズが1969年にウェストミンスター神学校で教職者・学生に行った講義を書籍化したものです。

エミール・ブルンナーが「改革派のもっとも洗練された説教」と評価した(本書10頁)ロイドジョンズの説教論・説教者論がどんなものか、以下の引用から感じとっていただければ幸いです。

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説教の重要性
  • 教会の歴史の中で退廃的であったのはいつも説教が衰微していたときであったことは明白でないでしょうか。改革やリバイバルの到来を告げるのは何だったかと言えば、それは説教の再開です。……再び真の説教がされ始めると、教会の歴史は常に新しい運動を生み出してきたのです。(37頁)

教会の第一の任務
  • 私は根本的命題として、教会の主要な責務は人々に教育を施すことでも、肉体的、心理的いやしを与えることでもなく、幸せにしてあげることでも、善人にすることもでもないと述べたいのです。これは救いに付随する事柄です。……教会の第一の目的はそられのどの一つでもなく、むしろ人々を神との正しい関係に導き、神と和解させることです。(44頁)

説教は人々に反省を迫るもの
  • 人々が私たちの言うことを聞いて、自分自身が心配になったり、自らを省みることがないなら、私たちは説教をしているのではありません。(80頁)

感動に支えられた語り
  • 説教者は語っている事柄に捉えられ、心奪われている事実を通して人々に感動を与えなくてはなりません。伝えたい題材が山ほどあり、どうにかしてこれを分かちたいと熱望します。自分自身大いに感銘し、感激しているので、ほかの人々にもこれを分かち合いたいと望むのです。さらに人々への気遣いから彼らに説教します。人々のことに心砕き、何とか彼らの助けになりたい、そして彼らに神の真理を教えたいとしきりに願います。そこで彼は精魂を傾け、情熱を燃やし、人びとに対するこのはっきりした気遣いをもって語るのです。換言すれば、みことばの真理から離れて語る説教者は、たとえどんなに立派で、真実ですばらしい事柄をあれこれ語っても、それだけなら説教者とは言えません。(127頁)

説教者として大事なもの
  • まず神の愛です。それに魂に対する愛、みことばに関する知識、そして自分の内に住んでいてくださる聖霊です。これらの事柄が備わって説教者になるのです。神の愛がその人の内にあり、彼に神に対する愛があるなら、また人々の魂に対する愛と心遣いがあり、聖書の真理を知り、御霊がその内におられるなら、その人は説教するようになるでしょう。(174頁)

礼拝で伝道説教を定期的に行うことの大切さ
  • 私(ロイドジョンズ)は何年間も自分をクリスチャンだと思っていました。しかし、実際は違っていたのです。自分がクリスチャンではないと分かり、クリスチャンになったのは後になってからです。それでも、私は教会の一員としてきちんと教会に出かけて礼拝を守っていました。ですからほとんどの説教者と同じく、だれもが私をクリスチャンだと考えていたのです。でもこれは私の状態に対する正しい評価ではなかったのです。私に必要だったのは私に罪を自覚させ、私の必要を知らせ、私を真の悔い改め に導き、そして新生とは何かを知らせてくれる説教でした。でも私はそれを聞いたことがなかったのです。(211~12頁)
近藤勝彦氏(前・東神大学長)は自著『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』(2002年、教文館)の88頁以下でロイドジョンズの説教の力強さに触れ、本書に言及しています。

本書は翻訳が見事なことから、非常にわかりやすく読みやすいです。

JELA事務局長
森川 博己

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2018年6月1日

【チャリティコンサート2018】甲府教会でも観客を魅了

第15回世界の子ども支援チャリティコンサートの第5公演を5月26日に日本福音ルーテル甲府教会(山梨県甲府市)で開催しました。

蒸し暑い中でしたが、教会の方々や近隣の方々など、44名にご来場いただき、楽しいコンサートとなりました。

真野謡子さん(ヴァイオリン)と松田弦さん(ギター)は、暑さを忘れるような爽快な演奏を披露しました。曲に合わせて頷きながら聞き入っている方の姿も見られ、ご来場者の皆さんを魅了するコンサートだったことが伝わってきました。