ディートリッヒ・ボンヘッファー著『主に従う(上)』 (岸千年・徳善義和訳、1963年、聖文舎。原書は1937年発行)をとりあげます。
著者は、ナチにより39歳で絞首刑に処せられたドイツの牧師・神学者。
以下では、「高価な恵み」と「安価な恵み」を含む、彼の神学の一部をご紹介します。
自分を含めた説教者への戒め
著者は、ナチにより39歳で絞首刑に処せられたドイツの牧師・神学者。
以下では、「高価な恵み」と「安価な恵み」を含む、彼の神学の一部をご紹介します。
◇◆◇
自分を含めた説教者への戒め
- あまりにも「教義的」に説きすぎて、「生に向かって」説教することがあまりにも少ないのかもしれない。……聖書の特定の思想を喜んで繰り返し語りながら、その際、他の重要な言葉をあまりにも無頓着に見過ごしているのかもしれないし、それどころか、いつも、自分の意見や確信をあまりにも多く説教し、イエス・キリストご自身を説教することがあまりにも少ないのかもしれない。(3頁)
- イエスの戒め全体、すなわち、無条件的に従うことへの召しが存続するところにおいて、はじめて、人々をイエスとの交わりへと完全に解放することが可能となるのである。イエスの戒めにひたすら従う者、イエスのくびきを逆らわずに自分の身に負う者、その者にとって、自分が負わねばならない重荷は軽くなり、彼はこのくびきの穏やかな圧力のなかで、疲れることなく正しい道を歩みゆく力を受けるのである。……イエスは、実行しうる力を我々に与えることなしには、何をも我々から要求したまわない。(5~6頁)
- 安価な恵みは、悔い改めのない赦しの説教であり、教会的訓練のない洗礼であり、罪の告白のない聖餐であり、個人としての懺悔のない赦しの宣言である。安価な恵みは、主に従うことを要しない恵みであり、十字架のない恵みであり、人となりたもうた生けるイエス・キリストのない恵みである。(12頁)
- 高価な恵みは、畑に隠された宝であり、そのもののためには、人は行って持っている物をみな喜んで売ってしまうのである。……それは、キリストの主としての支配で、そのためには、人は自分をつまずかせる眼を抜き取るようなものである。それは、イエス・キリストの招きであって、それに応じて弟子はその網を捨てて、主に従うほどのものである。高価な恵みは、常に繰り返して求められねばならない福音であり、祈り求められねばならない賜物であり、叩かねばならない戸である。……それは、価の高いものである。というのは、人にその生命を払わせるからである。それは、恵みである。というのは、それは、そのようにして初めて人に生命そのものを与えるからである。……「あなたは、高い値段で買い取られた」というように、神にその御子の生命を支払わせたから、……神にとって価の高いものは、我々にとって安価ではありえないから、高価なものなのである。……それは、イエスに従えとの恵み深い招きとして、我々に出会う。(12~14頁)
- ルターは、この恵みが彼に生命を要求したし、なお日々、要求することを知っていたのである。なぜなら、彼は恵みによって主に従うことから免除されたのではなくて、そこで初めて、いっそう主に従うことへと突き進まされたからである。……ルターの門人たちは、それを文字通りに反復した。ただし、ルターがいつもわかりきったこととして考えていたこと、すなわち、主に従うこと……を、いち早く捨て、それを思いもせず、語りもしなくなったという、たった一つの違いがあった。(21頁)
- 主に従うということは、キリストに結びつくということである。……キリストについての理念、教理体系、恵み、あるいは、罪の赦しに関する一般の宗教的知識は主に従うことを必要としない。いや、実際にそれを締めだしてしまい、主に従うことに敵対する。……生けるイエス・キリストのないキリスト教は必然的に、主に従うことのないキリスト教としてとどまり、主に従うことのないキリスト教は、いつも、イエス・キリストのないキリスト教である。それは、抽象観念であり、神話である。(37頁)
森川 博己
◆◇◆