2020/03/31

日本福音ルーテル社団(JELA)役員人事に関するお知らせ




 一般社団法人日本福音ルーテル社団(JELA)は、2020330日(月)に開催した社員総会、及び臨時理事会において、同日からの役員体制について下記の通り決定しましたのでお知らせいたします。

役員
理事長  古屋 四朗(学校法人草苑学園 総務・財務部長)
常務理事 森下 博司(学校法人ルーテル学院 監事)
常務理事 長尾 博吉(公益財団法人日本宗教連盟 評議員)

理事   浅野 直樹(日本福音ルーテル市ヶ谷教会 牧師)
理事   松岡俊一郎(日本福音ルーテル教会大岡山教会牧師)
理事   中川 浩之(元東急エージェンシーインターナショナル 取締役)
理事   渡辺  薫(日本福音ルーテル社団 事務局長)
理事   杉本 洋一(日本福音ルーテル熊本教会 牧師)
理事   明比輝代彦(日本福音ルーテル教会 引退牧師)

監事   安藤 淑子(元WHO世界保健機関 財務担当官)
監事   木村  猛(株式会社ザ・ルーテル 取締役)

なお役員の任期は2年後の社員総会当日までとなります。


以上

【関連リンク】   日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト


2020/03/27

【カンボジア・ワークキャンプ2020】参加者レポート⑤(村上綺理人さん)

JELAは2月12~22日にカンボジアでワークキャンプを行いました。

引率2名を含む7名の参加者たちは、JELAが支援している現地団体との協力で2箇所の小学校でのボランティア活動を行いました。また、学校の子どもたちと遊び、カンボジア・ルーテル教会の青年会や礼拝に参加し、交流を深めました。

カンボジアの歴史と文化を知るために、キリングフィールド、拷問博物館、地雷博物館などの見学や世界遺産アンコールワット遺跡の観光も体験することができました。
以下は、村上綺理人さんのレポートです。

◇◆◇

私がカンボジアのボランティアワークキャンプで、ポル・ポト政権時の虐殺や地雷被害、十分な環境とは言えない学校の中で勉強する子供たち、生活するために必死に働いているカンボジアの人々について知ることが出来ました。カンボジアという異国でのこれらの経験が、自分の人生観を180度変えることができたと思います。


校舎図書室の壁を塗る村上さん
ポル・ポト政権の残虐な政策や虐殺の記録を記念館で見たときは現実から目を逸らしたくなるような、そして何でこのような事をしたんだ、という怒りの感情が私の脳を支配したような感じでした。拷問博物館で、自分が当時の拷問を受けている身になって色々見て回りましたが、生きる希望が見えないような絶望感に襲われるほどの拷問時の写真や古びた留置場を見ました。地雷博物館もそれに負けないぐらい大変な惨事や今も必死に活動していることに心を打たれました。

小学校を2件訪れましたが、どちらの学校も子どもたちがみんな元気で、私達のような初対面相手でも、笑顔で積極的に接してくれて、とても嬉しい気持ちになりました。日本とは違い、学校の設備も十分とは言えない環境の中で、必死に勉強に励む子供たちを見ました。

日本の子供たちはやる勉強というよりやらさせる勉強をしている雰囲気が多い印象でしたが、カンボジアの子供たちはみんな自分で勉強をしたいという熱意が遠くでも見て分かりました。私たち日本人の多くは、今の日本の環境が恵まれているということに気付いていないんだなと思えました。
子どもたちのために折り紙に集中する村上さん(左、グレーのポロシャツ)
そして7人の参加者メンバーで団結して過ごした日々は私にとってかけがえのない経験になったと思います。みんな個性的で明るく元気な方々で、このメンバーだったからこそ楽しく、そして安全にワークキャンプやボランティアを終了することができたと確信しています。
子どもたちに囲まれ腕相撲を楽しむ村上さん(中央)

このワークキャンプを経験して、またカンボジアの子供たちのために、そして自分の経験のためにまたしっかり勉強してからカンボジアに行きたいと考えています。このようなボランティアを開いて頂きとても感謝しています。








【続・信仰書あれこれ(最終回)】一生読むに堪える信仰書

今から50年ほど前のことです。音楽評論家の故・吉田秀和が、ある新譜レコード(リヒテルが演奏したバッハの「平均律クラヴィーア曲集」)を「一生聴くに堪える演奏」と評しました。曲自体とても魅力的なのですが、一つ一つの曲を慈しむかのように奏でる繊細なピアノの響きは、何度聴いても飽きのこない、まさに不朽の調べです。

そんな昔のことを思い出しつつ、自分にとって「一生読むに堪える信仰書」は何だろうと考えたところ、答えは即座に与えられました。竹森満佐一著『ローマ書講解説教 Ⅰ~Ⅲ』(1962~1972年、新教出版社)がそれです。

何種類かある竹森氏の説教集に接したことがないのは、ある意味で不幸ですが、これから繰り返しそれが読めると考えれば、幸福の極みです。少しでも多くの方に、竹森満佐一の不朽の説教集をひもといていただければと思う次第です。

ローマ書講解説教 Ⅲ』のあとがきに、竹森氏は次のように記しています。「この説教は、一死刑囚のために書くことが動機であった。それが、その人の処刑後も続いたのである。今、これを完成して、その人から受けた数多くの手紙を通してその交友のことなどが思い出されて、感慨もひとしおである。東京の一隅の教会での説教が、極限状況に置かれた人々にも等しく福音として受け取られたことは、言いようのない感動を誘うものである。」(413頁)

第一分冊・第二分冊については本シリーズで触れたので、きょうは第三分冊の、「ローマの信徒への手紙15章14~21節」の説教から少しご紹介します。

◇◆◇

「説教」と「お説教」
  • 福音を語るのは、いわゆるお説教をすることではありません。説教とお説教……の区別で最も重要なものは、説教する人自身が、自分のためにも福音を聞いていることです。誰よりもまず自分が福音を聞きながら、その福音を語るのです。そうでないと、説教する人は、居丈高になって話をしているが、聞いているほうから言えば、まことに空しく感じられるのです。それが福音なら、あなたが第一に聞いたらどうか、と言いたくなるのです。神の言の権威と、説教者の権威が混同されては、興ざめどころではなくなりましょう。(334頁)

自分を見失わない伝道者の道
  • 我々は何のために伝道するのでしょう。……伝道は、信者を造り、教会を大きくしていくことであるというのは、決して間違ったことではありません。ただ、そういう言い方には、誤りやすい危険があることも事実であります。……間違いの少ない伝道者の道は、キリスト・イエスに仕えることなのです。ひとりの人に仕えるように、キリストというご主人に、どのようにして仕えるかによって、正しく伝道者になれるかどうかが定まるのであります。
    このことを目標とし、これから外れなければ、伝道者としての道を誤ることはありません。しかし、礼拝とか説教とか言っても、キリスト・イエスに僕として仕える姿勢が正しくできていなければ、その伝道は、結局は失敗に終わります。その説教も、力を失うときがくるものです。(336頁)

伝道の最終目標
  • 伝道は人を神のもとへ連れて行くことでありましょう。しかし、ただ神の話を聞かせるのではありません。話を聞かせるのは、ひとつの方法にすぎないのです。その人に、神を知ってもらうことも大切ですが、少し奇妙な言い方ですが、神にその人を知ってもらうのです。あるいは、その人に、神に知られたことを知らせる、と言ってもいいかもしれません。さらにはっきり言えば、その人を神に献げるのです。(中略)伝道は、人間を立派にするのが目的ではありません。人間を社会の役に立つものにするのが主要なことではありません。そうではなくて、その人を神のものにすることであります。自分が伝道しようとする人が、神のものになり切ったとき、その伝道は成功したとも、完了したともいうことが言えましょう。(336~338頁)

「信仰書あれこれ」は2018年1月にスタートし、2019年3月までに100件の記事を書くことができました。少し休憩したあと、2019年7月からは「続・信仰書あれこれ」と銘打って再開し、本日までで20件の記事を提供しました。

2018年10月末で自分がJELA事務局長を退任するにあたり、記念植樹のつもりで取り組んだ試みです。お読みくださる皆さんの励ましを感じながら、ここまで書き続けることのできた幸いを神様に感謝いたします。皆さん、これからも、主と共なる喜びと希望に満ちた日々をおすごしになりますように!

JELA理事
森川 博己

◆◇◆

【関連リンク】 
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト

2020/03/26

【カンボジア・ワークキャンプ2020】参加者レポート④(本間いぶ紀さん)

JELAは2月12~22日にカンボジアでワークキャンプを行いました。

引率2名を含む7名の参加者たちは、JELAが支援している現地団体との協力で2箇所の小学校でのボランティア活動を行いました。また、学校の子どもたちと遊び、カンボジア・ルーテル教会の青年会や礼拝に参加し、交流を深めました。

カンボジアの歴史と文化を知るために、キリングフィールド、拷問博物館、地雷博物館などの見学や世界遺産アンコールワット遺跡の観光も体験することができました。
以下は、本間いぶ紀さんのレポートです。

◇◆◇

初めて行ったカンボジア。それがJELAのワークキャンプで良かったと心から思っています。もし単なる観光でカンボジアを訪れていたら、カンボジアが抱える問題に気づくことができなかったと思います。
参加者と並んで学校の塗装に励む本間さん(手前)

首都プノンペンで過ごした1週間は貧富の差を目の当たりにしました。ビルが立ち並び、人々が近代的な暮らしをする街から、ワークのために車でほんの少し移動すると、舗装されていない道路や清潔な水を使うことのできない環境、女性や子どもが安心して暮らすことのできない環境がありました。事前に大学の授業や自身で調べて知っていたことではありましたが、とてもショックでした。

近年のカンボジア経済は高成長していますが、そこから弾かれた人々が多く存在することを実感しました。わたしたちが行った時はちょうど干ばつで多くのため池が干上がっていました。また、少数派のイスラム教信仰者が多い地域では幹線道路にも関わらず、政府の支援が少ないため、あまり整備されていませんでした。
教室に飾る日本をテーマにした絵を子どもたちと一緒に描く本間さん(右端)

LWD(Life With Dignity)で聞いた話の中の「カンボジアの平等な開発」がいかに重要なことかを考えさせられました。その「カンボジアの平等な開発」をする上で、わたしたち日本人ができる支援は何だろうと考えたときに、現地で活かすことのできる技術や知識の提供がすぐに思い浮かびました。しかし、それらはわたしのような技術も知識もお金もない大学生ができるものではありません。支援をしたいけど、難しい状況にもどかしくなりました。
現地支援団体LWDにてプレゼンを熱心に聞く参加者ち

そんな中でも、ひとりの人間として、クリスチャンとしてできることがありました。この現状を世の中の人に「知ってもらう」ことです。わたしは今回の渡航で、カンボジア国内の経済格差やポル-ポト政権が行った残虐な行為をこの目で見て深く知りました。キリングフィールドトゥールスレン拷問博物館地雷博物館では、海外から来た人たちにカンボジア国内でポル・ポト政権が何をしてきたか、どんな残虐な行為をしてきたか、見るに耐えない事実を教えてくれました。「知る」「知らせる」ことで支援の輪が広がること、知らなくては何も始まらない、正しく知ることで正しい支援ができるのだと強く感じました。そして、今自分にできることをしたいです。

将来、カンボジア支援に携われる機会が与えられたときのための備えをしていきたいです。学びある濃い10日間をありがとうございました。







【カンボジア・ワークキャンプ2020】参加者レポート③(梅津幸奈さん)

JELAは2月12~22日にカンボジアでワークキャンプを行いました。

引率2名を含む7名の参加者たちは、JELAが支援している現地団体との協力で2箇所の小学校でのボランティア活動を行いました。また、学校の子どもたちと遊び、カンボジア・ルーテル教会の青年会や礼拝に参加し、交流を深めました。

カンボジアの歴史と文化を知るために、キリングフィールド、拷問博物館、地雷博物館などの見学や世界遺産アンコールワット遺跡の観光も体験することができました。
以下は、梅津幸奈さんのレポートです。

◇◆◇

私はこの4月から教育学について学びます。そうした中で子どもへの支援に興味があり、今回カンボジアワークキャンプに参加しました。日本以外のアジアの国に行くことは初めてだったので、大きな期待を持ってキャンプに参加しました。カンボジアでのボランティアや見学、現地の人との関わりの中で私が感じたことは3つです。
小学校図書室塗装準備の掃除をする梅津さん。

1つ目は、都市部と地方の開発には大きな差があることです。空港や高層ビルが建ち、活発な開発が行われている地域がある一方、生活することに不安を感じてしまうような地域がありました。その中でも特に、イスラム教徒が住んでいる地域の道路が他地域より整備されていない状況を目にした時には、日本ではあまり見られない宗教的差別がこうした形として生活に影響していると知り驚きました。

2つ目は、日本と比べて高齢者が少なく子どもが多いことです。過去に起きた悲惨な出来事の影響で高齢者が日本より極端に少数であると感じました。学校にワークに行った際、多くの子どもが学校に来ていて、その人数は日本よりも多く感じました。過去の出来事(1970年代ポルポト政権による大虐殺)が現代のカンボジアにまで影響を残している現状を知りました。また日本の少子高齢化も同時に実感させられました。

3つ目は、教育を受ける環境が十分に快適なものではないことです。施設的な問題としては、空調設備など子どもたちが健康を守られながら教育を受ける環境の不足やトイレの鍵が閉まらないこと、トイレットペーパーがないこと、汲み取り式のトイレであることなどが挙げられます。汲み取り式のトイレやトイレットペーパーの不設置は教育施設以外でもよく見られましたが、衛生的とは言えませんでした。これら以外の面での問題としては、教育をする立場の人の不足です。

教育現場では、子どもの人数に対して教師の人数が少ないことです。日本の学校とは大きく違い驚きました。それ以外の場所では、農業など生きていくために必要な知識や技術を次世代に教えていく立場の人が少ないことです。そういった立場に今いる人たちが、これまでに十分な教育を受けてこられなかったことも一因ではあると思いますが、過去の出来事で多くの知識を持った人や教えるべき立場の年代の人が失われたことも大きな理由であると思います。こうした面でも、カンボジアは過去の出来事の後遺症を背負っているのだと知り悲しくなりました。

今回のキャンプでは、現地の子どもたちと接する機会が多くありました。一緒に遊んだり、散歩をした子どもたちの目は本当にキラキラしていました。また勉強することが好きだと感じ、自分から学ぼうとする姿勢の子どもも多かったです。今生きている瞬間を純粋に楽しみ、学べることを心から喜ぶ子どもばかりでした。
村の子どもたちとお散歩
それに比べ、日本では人よりもスマートフォンの画面などに目を向けることが多く、勉強をすることに負の感情を持っている子どもが多いように感じます。そうした場面を目にすると、何が本当の幸せなのかという思いが私の心に浮かび上がりました。

折り紙を折りプレゼントしたり、手を繋ぎ散歩をしたり、鬼ごっこなどをして楽しんでいた子どもたちの笑顔をこれから先も守っていきたいと感じました。そして子どもたちが満足できるような教育の環境を整えるための支援が必要であると思いました。





【世界の子ども支援】カンボジアの水プロジェクトに日本政府の助成金

LWDスタッフと日本大使館の方々
JELAのカンボジアのパートナーNGOLife with Dignity(ライフ・ウィズ・ディグニティ=LWD「尊厳ある生活」の意味)ODA(政府開発援助) 草の根・人間の安全保障無償資金協力に申請を行った、ポーサット州レアン・クバーウ村給水システム整備計画(水プロジェクト)に対して、103885米ドル(日本円で約1200万円相当)のご支援を日本国外務省からいただけることになりました。

JELAでは、数年に渡って顧問のローウェル・グリテベック博士と奈良部慎平職員が、今回の水プロジェクトのために二度の現地視察や在カンボジア日本大使館との連絡・情報交換を行うなど、LWDの申請に全面的に協力してきました。
LWD代表と日本大使館大使

319日には、在カンボジア日本大使館を会場に日本国外務省主催の「令和元年度草の根・人間の安全保障無償資金協力 署名式典」が開かれ、LWD スオン・ソピアップ代表ら関係者が参加しました。

 在カンボジア日本大使館からは、LWDの水プロジェクトに対して次のような期待と評価をいただいています。


「レアン・クバーウは、水道や電気のインフラ施設が未整備の地域です。現在、住民は遠方の川まで長い時間をかけて水を汲みに行くか、割高な価格で川の水を購入せざるを得ない状況にあり、彼らが自宅近くで安心して使用できる水道設備が望まれていました。本案件の実施により、村内に浄水施設が整備され、水衛生環境が向上することで、住民の基礎生活の改善が見込まれます」

JELAも式典へのご招待をいただいていましたが、残念ながら新型コロナウイルス( COVID-19)の影響で渡航を断念しました。代わりに、在カンボジア日本大使館へは、貧困農村に対する給水事業へのご理解とご支援に対して心からの感謝を表する手紙をお送りすると同時に、水プロジェクトの成功のためにLWDと共に努力することをお伝えしました。

レアン・クバーウの水プロジェクトは、20204月から3年間に渡って行われる水道設備工事です。この工事の完成によって、968人(225世帯)もの人々の生活の質が向上します。工事は3年間で終わりますが、水は生活になくてはならない資源です。村人が自分たちの力で給水設備メンテナンスを行えるような末長く持続する仕組みを構築することもJELAの使命です。LWDと共にカンボジアの人々のために力を合わせて参ります。

カンボジアをご支援くださる皆さま、引き続きお祈りとご支援をよろしくお願いいたします。

水源を調査するJELA・LWDスタッフと大使館の方々

【関連リンク】
世界の子ども支援関連記事(JELAニュースBLOG)

2020/03/25

【カンボジア・ワークキャンプ2020】参加者レポート②(吉田汐里さん)

JELAは2月12~22日にカンボジアでワークキャンプを行いました。

引率2名を含む7名の参加者たちは、JELAが支援している現地団体との協力で2箇所の小学校でのボランティア活動を行いました。また、学校の子どもたちと遊び、カンボジア・ルーテル教会の青年会や礼拝に参加し、交流を深めました。

カンボジアの歴史と文化を知るために、キリングフィールド、拷問博物館、地雷博物館などの見学や世界遺産アンコールワット遺跡の観光も体験することができました。
以下は、吉田汐里さんのレポートです。

◇◆◇

「カンボジアは、こころが豊かな国。また、近年、発展してきている国。」これは、今回のワークキャンプに参加する前に抱いていたカンボジアのイメージである。私は、高校 1年生の時に、高校が主催していたカンボジア研修旅行で、一度カンボジアを訪れたことがあるため、そのように感じていた。目の前にある食料や物に満足している様子、子ども達の楽しそうな笑顔、現地の人々の優しい振る舞いなどからである 
一部発展を見せるカンボジア。プノンペン中心部
また都市部は道路がしっかりと舗装されていて、多くのお店が並んでいる一方で、農村の地域に行くと、干ばつが目立ったり、ジェンダーの問題、児童婚の問題があったりなど地域による格差があることを目の当たりにした。このようなことから、未だに平等な開発が進んでいないという現状を知った。


それらを踏まえ、私が行く前に感じていた、カンボジアは発展してきているというイメージは、一部の地域に過ぎないのだと分かった。高校 1年生の時に行った一部の発展している地域を見て、カンボジアの全てを知った気になっていたのだ。 

しかし、今回のワークキャンプに参加し、今まで私が抱いていたイメージが覆った。きっかけは、カンボジア国内で、平等な開発が進んでいないという現状を知ったことである。例えば、仏教が一般的な宗教とされるカンボジアでは、イスラム教の地域は差別されている。 そのため、その地域は道路がガタガタで、宗教による格差がみられる。
支援先の農村地域が干ばつに見舞われていた
しかし、そう感じた一方で、自分にはこのくらいのことしかすることが出来ないのだと痛感した。農業の知識がなく、英語も苦手な上にクメール語は全く分からない私に、出来ることは何か。そのようなことを考えた結果、直接的にどのような支援が出来るかという答えは未だに出ていないが、間接的に、であればカンボジアの人のために出来ることはあると考えた。それは、「伝える」ということである。カンボジアの現状について、知らない人達に伝えていくのである。 

一度カンボジアに行ったことがある私ですら、カンボジアの現状に気付くことが出来なかったということは、おそらく、日本にいる多くの人は自分で調べたり、教えてもらったりしない限り知ることはないだろうと考えた。カンボジアの人のニーズに答えることが可能な 人も、そのニーズを知らなければ、当然行動を起こすことはない。そこで、「伝える」ということを通して、多くの人にカンボジアの現状を知ってもらい、それがカンボジアの支援に繋がって欲しいと考えた。 
タンクラング村の小学校校舎の塗装に励む吉田さん(手前)とボランティア仲間。
その一方で、そう思える気持ちを大切にしたい、忘れないようにしたいと考えた。それは、もし自分がその時代、その場所にいれば、自分もしかねないことであると感じたからである。つまり、環境 によって誰でも人は被害者にも加害者にもなり得るのだと考えた。そういったことから、多くの人が、異常であることを異常であると思い続けることが出来るように、私は今回感じた 内戦の時のことを沢山の人に知ってもらおうと考えた。そこで、現在のカンボジアについて 伝えることに加え、内戦の時のカンボジアについても伝えていきたいと考えた。 


それと同時に、「このように平等な開発が進んでいないカンボジアに対し、自分は何をすることが出来るのだろう。」ということを考えた。カンボジアの人が求めることとして現地の人がおっしゃっていたのは、農業の技術や英語を教えてくれる人である。そのことを知った時、自分の無力さを痛感した。今回行なったボランティアの内容は、ペンキ塗りであったが、もちろんそれは、現地の人の助けになったと思うので良かったと思う。
また、「伝える」ということについて、もう一点。先程述べた、現在のカンボジアについてだけではなく、内戦の時のカンボジアについても伝えていきたいと考えた。そう感じたのは、今回のワークキャンプで、キリングフィールドやトゥールスレン収容所(拷問博物館)に行ったことがきっかけである。当時、拷問を受ける苦しみから、自殺する方がマシだと思ってしまったり、 クメールルージュは、新たな収容者が運ばれてきた時に歓喜の声を上げたり、拷問時の様子を描いた絵が本当に生々しかったことなど、今の日本にいて考えられないような異常だとも思えるこの現状に、悲しさや怒り、疑問など多くの感情が込み上がった。
また、未だに答えの出ていない、カンボジアへどのような直接的な支援が出来るかについては、この「伝える」ということを通しながら考え続けていきたい。 

2020/03/24

【カンボジア・ワークキャンプ2020】参加者レポート①(濱夕美さん)

JELAは2月12~22日にカンボジアでワークキャンプを行いました。

引率2名を含む7名の参加者たちは、JELAが支援している現地団体との協力で2箇所の小学校でのボランティア活動を行いました。また、学校の子どもたちと遊び、カンボジア・ルーテル教会の青年会や礼拝に参加し、交流を深めました。

カンボジアの歴史と文化を知るために、キリングフィールド、拷問博物館、地雷博物館などの見学や世界遺産アンコールワット遺跡の観光も体験することができました。

以下は、濱夕美さんのレポートです。

◇◆◇

今回のワークキャンプで子ども達と遊べたこと、子ども達の素敵な笑顔に触れられたことなどボランティアで経験したことも、とても良い物だった。これからの私の人生で必要になるものだった。しかし、見学で行ったキリングフィールドトゥールスレン(拷問博物館)が私だけでなく世界にとって必要だと考えた。歴史を学ぶことは未来のために必要なことだが、戦争やジェノサイドの歴史を学ぶことは、平和を続けるために最も必要だと改めて考えるきっかけとなった。

まず、キリングフィールドでクメールルージュについての説明があり、アンカー(党)がナチスに似ているとおもい、物心つかない子どもを拉致し、洗脳をし、同じ国の人を殺すために教育していることが恐ろしく、キャンプなどを使い楽しくユダヤ人が悪いという教育をされていたヒトラー・ユーゲントに似ていた。重労働も似ており、今回は音声ガイドを聞いてゆっくり知らないことを学べ、お母さんが重労働のせいで夜しか赤ちゃんに乳をあげられず亡くしてしまったことを後悔しているというインタビューを聞き胸が締め付けられた。そして、キリングツリーで赤ちゃんを木に打ち付けて殺したこと、銃は高いので殺せるもので殺したことを聞き、どうして人間はそんな酷いことが出来るのかと考えさせられた。
チュンエクキリングフィールド虐殺センター

次に、トゥールスレンを見た際に、かつて高校だった場所をクメールルージュが占拠し、学生が遊んでいた遊具で拷問をされていたこと、家畜のように拷問を受け自殺することも許されず、しかし、自殺することが収容された方にとっての希望になってしまったこと。その音声ガイドを聞いた際に、ルワンダのジェノサイドの授業を思い出し、家畜のように拷問を受ける方が良いのか、家畜のように銃で残酷に殺される方が良いのか、どっちが良いのかと考えてしまった。きっと答えは1つで、どっちも嫌だが、またジェノサイドの悲劇が起こった際にはのことしか考えられなくなるだろう。

また、行きたかった地雷博物館に行った際に、クメールルージュが起こる少し前にアメリカがベトナム戦争でベトナムついでにカンボジアに爆撃をしていたことを知り、当時のカンボジアの人がポル・ポトにクメールルージュに期待していた。そう考えるとアメリカや冷戦をしていた世界のことも学び、考えることが大事だ。

そして、地雷博物館でアキ・ラーさん(同館設立者)に会え、アキ・ラーさんが、「伝えること」を大切にされており、無知は恐ろしいこと、知らずに悲劇を繰り返す前に辛い歴史を学ぶことが大切だと考えた。トゥールスレンで赤ちゃんを抱いた女性のためにも。子ども達のために。
地雷博物館設立者アキ・ラーさん

また、キリングフィールドで生存者のインタビューで希望と言っており、どんな状況でも生きる希望を持っていることが大切だと知った。もし、ジェノサイドなどの悲劇が起こりそうになったら希望を言い、悲劇を起こさないようにしたい。

私は、父が原爆を調べる研究者だ。母がアメリカの日系強制収容所を調べる研究者だ。その関係で、広島・長崎はもちろん、アウシュビッツ収容所にも行った。そして、今回、キリングフィールドとトゥールスレンを見学して、ピースボランティアに参加したくなった。また、カンボジアだけでなくインドネシアでも同時代に悲劇があったようなので、そういった歴史もどんどん学びたい。そして、世界で初めて原爆を落とされた国に生まれたので、今回、学んだこと、これからピースボランティアに参加して、世界の平和のために活動したい。
村の子どもたちとお散歩。濱さん(左手前)

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2020/03/18

【続・信仰書あれこれ】キリスト者の自由

徳善義和著『自由と愛に生きる――「キリスト者の自由」全訳と吟味』(1996年、教文館)をとりあげます。ルターを知るための必読文献のひとつです。

以下で引用するのは、すべて徳善氏の文章です。

◇◆◇

『キリスト者の自由』の存在意義
  • この小著をもって、宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト教的自由」の理解に全く新しいものをもたらした。……その新しい理解によって、キリスト教そのものに革新をもたらしたのである。……その新しさにおいて、真にキリスト教の使信、信仰の核心に迫り、これを提示しえたからである。しかも、これが……神学的な認識や理論としてではなく、まさに、彼の生と死を賭した、彼の存在をあげてのかかわりからほとばしり出るような激しく、迫りくるものを内に秘めているがゆえに、その革新と核心に貫かれる小著が、衝撃的な力を持ちえたのである。(中略)キリスト教的自由、キリスト者の自由のパウロ的理解を回復し、さらに深めたところに、『キリスト者の自由』のもつ、新しさ、革新性があったと言ってよいであろう(9~13頁)

名詞型の思考から動詞型の思考へ
  • 一般にルターは名詞型の思考ではなく、動詞型の思考をすると私には思えるし、そこに中世の信仰、教会、神学からの宗教改革的転回のひとつの手がかりがあると思われる。「神の義」を名詞としてとらえるのではなく、「神は我々を義とする」という形で動詞的に把握されるという具合である。……そうすると、「私こそいのちであり、復活である」<ヨハネ11・25>とは、……「私こそが生かし、復活させる」という動詞型を含んでおり、それだからこそ「私を信じる者はとこしえに生きる」につながることになる。また、「私こそ道であり、真理であり、いのちである」<ヨハネ14・6>も「私こそが導き、その道を歩ませ、真理に触れさせ、真実とし、生かす」ことを含んでいる。(83~84頁)

律法と福音
  • 誤解してはならないことは、ルターはごく形式的に、律法は旧約聖書のもの、福音は新約聖書のものとはしていないということである。旧約聖書にも新約聖書にも、そのいずれにも、律法の働きをする神の言葉と、福音の働きをする神の言葉との二とおりの神の言葉があるのである。何であれ、人間の罪を告発し、人間を絶望に導く働きをするものは律法であって、「古い契約」でしかない。……たとえば、キリストの十字架――これは本来、福音の中心である――が説かれたとしても、それがイエスを十字架につけた人間の罪の告発しか説かないで終わるとすれば、そのとき、そのような十字架の説教は、単に律法の働きしかしていないことになる。(112頁)

「信仰+愛」ではなく「信仰=愛」
  • 中世に支配的であった考え方は、信仰は、せいぜい教会が教えることが正しいとして知的に承認することにすぎなかった。それでは全く何の力もなく、何の実も結ばないので、信仰だけでは不十分だということになる。そこで、信仰に愛が加わらなくてはならない、愛を加えなくてはならない、ということになった。信仰プラス愛として初めて、信仰の具体的な形が現れてくるというのである。そういう考え方、受け取り方にルターは真っ向から反対している。神が働かれる、そこに、無からの創造として、信仰が結果する。神が徹底的に先行するのであって、神の働きは全てである。そのように働かれる神がおられるから、そのような神を「私は信じます」ということになる。働かれる神とその神への信頼が、信仰というひとつの出来事の両面である。そして、この出来事にすでに愛がある。この出来事が神の愛に基礎づけられているからである。だから、信じる人間は愛する人間、愛に生きる人間である。(155頁)

本書冒頭には、ルターが『キリスト者の自由』を教皇レオ十世に贈った際の、次のような贈呈文が付されています。「(初めから十頁ばかりを省略)私はおそらく恥知らずでございます。誰でもが教えを受けるべきあなた、また、あなたの有害なおべっか使いの何人かがあなたを持ち上げて、王も裁判官も皆あなたから判断を仰がねばならないと言っているほどのあなた、これほど偉大な位の高いあなたに教えようとしているのですから。しかしこの点で私は、教皇エウゲニウス宛の文書における聖ベルナールに従います。この書はすべての教皇が暗記すべきであります。(後略)」(本書46頁)

上の文中の「聖ベルナールから教皇エウゲニウスに宛てた文書」というのは、本シリーズでとりあげた『熟慮について』のことだと思われます。併せてお読みいただけると幸いです。

徳善義和氏の編集になるものとして、本シリーズでは『世界の思想家(5)ルター』も紹介しています。こちらも素晴らしい本です。

JELA理事
森川 博己

◆◇◆