2018/03/26

【信仰書あれこれ】主人公の瑞々しさ・優しさに心が洗われます

モンゴメリ著『赤毛のアン』(松本侑子訳、2000年、集英社文庫)を数年前に読んで感動しました。村岡花子の訳が有名ですが、『赤毛のアンの幸せになる言葉~人生が輝く生き方~』(松本侑子著、2014年、主婦と生活社)を事前に読んでいたこともあり、私は松本侑子訳で楽しみました。

以下、『赤毛のアン』の心に響く場面をいくつかご紹介します。

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アンは赤ん坊の時に両親と死に別れた孤児で、兄弟も親戚もいない天涯孤独の身。引き取り先はマシューとマリラという、田舎でひっそりと暮らす熟年の独身兄妹です。仕事の助けになる男の子を希望したのにアンをあてがわれ、マリラは孤児院に返そうとするのですが、マシューの口からは思いがけない言葉が出てきます。とてもキリスト教的です。
  「あの子を引き取るのは、やっぱり難しいかのう」
「当たり前ですよ。あの子が私たちの何の役に立つんですか」
「でもなあ、わしらが、あの子の役に立つかもしれないよ」(本書49頁)

アンとの生活が深まるにつれマリラの胸に母親のような愛情が湧いてきますが、それに浸るのではなくアンを厳しくしつけようと懸命です。天衣無縫のアンはそんなことにおかまいなく、思ったままを口にします。その一言が意味深長です。
  「いい子でいれば、いつでも幸せなんですよ、アン。そうすれば、お祈りの言葉を唱えるのも難しくありません」
「お祈りの言葉を唱えることと、祈ることは、厳密には違うわ」(112頁)

祈りについて、アンはこんなことも言います。
  「私は、アランさんが牧師に決まって嬉しいわ。お説教も面白いし、それに、習慣だからお祈りするんじゃなくて、心からなさるもの」(247頁)

アンの瑞々しい感性は物語の大きな魅力です。
  「なんて素敵な日でしょう!」アンは深々と息を吸い込んだ。「今日のような美しい日に生きているなんて、それだけで嬉しいわね。まだ生まれていない人は、今日という日を逃してしまうから気の毒だわ。もちろん、その人たちも、いつかは素晴らしい日にめぐりあうでしょうけど、今日という日は絶対に味わえないもの。それに、こんなにきれいな野山の道を抜けて学校へ行くなんて、なおさら素敵だわ」(150頁)

親友ダイアナの叔母さん宅で四泊した後、家に戻る時のアンの喜びようが次のように描写されます。(下線、森川)
  帰り道も、往きと同じくらい楽しかった。― いや、もっと楽しかった。たどり着く先に我が家が待っていると思うと、嬉しくてたまらなかった。(中略)「ああ、生きているってなんて素敵、そして家に帰るってなんて素敵なんでしょう」アンは吐息を漏らした。(中略)「ただいま、マリラ。家に帰るって、とってもいいものね」アンは喜びに満ち満ちて言った。(中略)夕食の後、アンは暖炉の前でマシューとマリラに挟まれて座った。そして、この遠出のことを何から何まで話して聞かせた。「とにかく、素晴らしかったわ」最後に、アンは満足そうに言って締めくくった。「一生忘れられない思い出よ。でも、一番素晴らしかったのは、家に帰ってきたことよ」(342343ページ)

家に帰ることの素晴らしさを四度も繰り返しています。私はここを読みながら、「家」が「天のみ国」のように思え、神に結ばれている限り、最後には「天のみ国」に帰り、神と共に永遠にやすらぐことができるのだ、という喜びが湧いてきたものです。

脳科学者の茂木健一郎が著した『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』(2008年、講談社文庫)の裏表紙には、「11歳の時、私はなぜ、“この作品には何かがある”と直覚したのだろう。最近になってやっと、その正体が見えてきた」とあります。こちらもよく書けているので、併せてお読みになることをお勧めします

JELA事務局長
森川 博己

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2018/03/23

【ブラジル・音楽ミニストリー報告】新学期の子どもたち(3)

JELAが支援しているブラジル・サンパウロ教会の音楽ミニストリーが2月下旬から新学期を迎えました。現在このミニストリーを指導する徳弘浩隆宣教師夫妻より、新学期から参加している子どもたちのご報告をいただきました。3回目(最後)はバンドと夕礼拝に参加する子どもたちです。

初回はこちらから

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バンドと夕礼拝
徳弘浩隆・由美子

高校を卒業したけれどまだ仕事がない、Natanという子がいます。もう一人のIsaiasは、高校に入って午後に来られないから午前に来るようになりました。小さな子ばかりの午前クラスでは一緒にできません。Natanはピアノを習ってきました。Isaiasはギターが上手でベースもやってみたいと言っています。私たちはサンパウロ教会で買ったベースとギターを持っていきました。「ピアノとギターとベースでバンドを組んでみようよ。ほかの子も少しずつ誘って、教会のゴスペルソングを歌う練習をして、礼拝で演奏するんだ」というと、彼らも乗り気になって弾き始めました。

聖書の中のザアカイとキリストの出会いを歌ったブラジルで有名なゴスペルソングの楽譜を印刷して、早速練習が始まりました。私も久々のギターを弾きながらやってみると、Isaiasが教えてくれます。今日は日本人ボランティアのピアノの先生が見てくれたら、NatanもIsaiasもみるみる上手になりました。14歳くらいを過ぎると、リコーダーやピアノの個人練習だけでは飽きたり、面白くなくなってくる子もいます。そういう思春期の子たちを取り込んでいって、楽しく、カッコよくグループ化するにもちょうどよいと思います。少しずつ仲間を増やして、夜の礼拝で賛美してもらうのが目標です。
先生の指導を聞き入るNatan(ピアノ)とIsaias(ギター)
 
クラスが終わってみんなを帰して、片付けと洗い物、ゴミ出しをして、スタッフでおやつの残りでお茶を飲んでひと休み。それから夕礼拝という流れでしたが、帰らない子もいます。「家に帰っても誰もいないし、お母さんに許可をもらっているから、宿題をして礼拝にも出る」というのです。たしかに、時間だからと追い返した後に、私たちが買い物に出たら道端で数人がたむろをしてふざけている姿を見たこともあります。ちゃんと保護者に許可もとっているなら、夕礼拝まで教会にいたほうが安全かもしれない、と思います。そんなことで、Ana、Micaele、Mayaraなどは片付けを手伝ってくれた後、一緒にお茶を飲んで、夜の礼拝にも出るようになりました。半分はお菓子とジュースが飲めるお茶の時間が目当てかもしれませんが、一緒に礼拝にも出るならと、祈りながら長い目で見てあげています。
クラス後のお片付けや夕礼拝にも加するようになったAna(長髪)とMicaele(メガネ)
  
始まった新学期、これからもお祈りやご支援、よろしくお願いします。

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【ブラジル・音楽ミニストリー報告】新学期の子どもたち(2)

JELAが支援しているブラジル・サンパウロ教会の音楽ミニストリーが2月下旬から新学期を迎えました。現在このミニストリーを指導する徳弘浩隆宣教師夫妻より、新学期から参加している子どもたちのご報告をいただきましたので、3回に分けてご紹介しています。

2回目の今回はKelvinとVeatrizという二人の子どもの話です。

1回目はこちらから

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午後のクラスの頑張り屋さんたち
徳弘浩隆・由美子

午後クラスの新しい子の中で頑張っているのはKelvinVeatrizです。Kelvinは午前クラスからの移行組です。おとなしい午前クラスと違って、やんちゃな年上の子たちもいる午後クラスで少しおっかなびっくり。仕事中にケガをして治療中の父親が、休みをもらっているからと一緒に来ています。教会が音楽を教えてくれて本人がやる気があるというので、お父さんはKelvinに高いキーボードを無理して買ってあげたそうです。

息子がパソコン教室にも参加できることをお父さんは感謝してくれています。まずは、キーボードを見なくてもタイピングができるようになる「タッチタイピング」を練習させていると説明すると、驚いて喜んでくださり、練習中のKelvinを教室のドア越しにずっと見守っています。「覚えが速いですよ」「今日もだいぶ進みましたよ」と説明するとお父さんはとても満足そう。「私の父はとても厳しい人でした。『勉強しろ。そうじゃなきゃ働きに行け』といつも怒られてました。私は働きに行きましたが、うちの子にはしっかり勉強させたいです」と話してくれました。Kelvinはタイピング練習ソフトも、みるみる目標をクリアして進んでいます。
パソコンソフトをこなすKelvin
Veatrizにはパン屋さんで出会いました。教会そばの学校の近所にパン屋さんがあり、子どもたちのおやつの材料のパンを私たちはよく買いに行くのです。実は、下校中の子どもたちに何げなく会えるように、1220分をめどに、時々わざと学校そばのパン屋さんを訪れます。午前の部が終わってぞろぞろ出てくる子どもたちの中から、教会に来ている子が手を振ってくれたり、駆け寄ってきて飛びついてくれたりします。「今日もおいでよ」とハグをしたり握手をしたり、そして一緒にいる友達にも声をかけることができるのです。

Veatrizは、いつもそこに来ているMicaeleのお友達で、二人が一緒にいる時に知り合いになりました。私たちは小さなフランスパンを40個買って、「持てないから教会まで運ぶの手伝ってよ」と頼むと、二人とも嬉しそうに助けてくれました。「今度教会においでよ」と別れましたが、その翌週、Veatrizはお母さんと一緒に申し込みに来てくれました。お母さんは、一人で子どもを育てながら看護学校に通っている若い方です。それから毎週Veatrizは喜んで来てくれて、音楽とパソコンのタイピング練習をしています。

Veatrizは元気でかわいい子ですが、Kelvinと比べるとちょっと忍耐力が足りません。「あー、こんなのできない」「まだこんなにあるのー?」と言いながら、なんとかズルをして早く終わらせようと、練習ソフトをいじっています。まあ、これも探求心と問題解決能力の一つだろうと、笑いながら大目に見ています。

先輩がやっているパソコンの宿題に早く進みたいとVeatrizがせがむので、やらせてみました。MS WordBazar(バザー)のパンフレットを作って展示し、投票結果で優勝した人にはプレゼントがあるというものです。ただのパンフレットじゃなくて、「写真を入れる、イラストを入れる、3種類のフォントを使い分ける、テキストボックスを使って表現力を上げる」というWordの難しい機能を使う4つの決まりをつけました。「Sensei, Sensei」と何度も腕を引っ張られて、みんな聞いてきますが、Veatrizも一生懸命。そして見事にクリアして仕上げました。さて、人気投票の結果が楽しみです。
完成したバザーのパンフレットを嬉しそうにかかげるVeatriz

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【ブラジル・音楽ミニストリー報告】新学期の子どもたち(1)

JELAが支援しているブラジル・サンパウロ教会の音楽ミニストリーが2月下旬から新学期を迎えました。現在このミニストリーを指導する徳弘浩隆宣教師夫妻より、新学期の始まりと参加している子どもたちのご報告をいただきましたので、3回に分けてご紹介いたします。

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始まった新学期
徳弘浩隆・由美子

ブラジル各地のカルナバル(=カーニバル)の大騒ぎが終わり、新しい学期が始まりました。教会の壁には、「新学期入学受付中・保護者説明会」の看板を貼って、みんなにもお知らせしていました。

初日は数人でしたが、予定通り説明会と登録会をしました。準備したのは「教会音楽教室規則」「申込書」です。昨年からのスタッフで元警察官のJorgeさん、元図書館司書のAliceさんが去年一年運営してきて見つけた課題やその対策を盛り込んで簡略な決まりを作ってくれました。子どもたちと保護者に説明して、保護者のサインをもらって登録完了です。
新しい子どもや保護者たちのための新学期説明会の模様

やんちゃな子どもたちで、ケンカや物の紛失もありますし、教会に行くと言ってよそで「たむろ」して問題を起こしたりしてもいけません。教会と本人・保護者の責任なども明記し、入出時間の管理も出席記録にサインしてもらいます。日本との違いや、こういう地域ならではの危機管理を学ばされます。

新学期になって早速7人の子どもたちも新しく登録に来てくれました。新学期のプログラムは、音楽教室、パソコン教室、そして新たに始めたのが卓球トーナメントです。教室が二つしかないので、待ち時間の子たちはすぐに騒いで他の教室の邪魔になってしまいます。そこでいろいろやってみましたが、今回やってみたのは駐車場での卓球です。
廃材を利用して作った卓球台で遊ぶ子どもたち


寄付してもらったネットとラケットのセット、道で私たちが拾ってきた家具を分解し、捨ててあった板を使ってとりあえずの卓球台完成です。小さくても、板が曲がっていても子どもたちは大喜びで遊び始めました。初めての子も多いので私たちがラケットの持ち方と素振りを教えてあげて、トーナメントをしています。

あきたらバスケットボールでボール遊び。少しエネルギーを発散しないと、ふざけて無用なケンカやケガのもとにもなります。しかし、問題は雨。30度を超える日は夕方激しい夕立があります。雨が降り始めると一斉にみんな教会内に戻ってきて音楽教室やパソコン教室は蒸し暑く、また大騒ぎになります。簡易のロール式の屋根でもつけられたらと祈っています。


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2018/03/22

【信仰書あれこれ】南北戦争と信仰を描いた映画

友情ある説得』(ウィリアム・ワイラー監督ゲーリー・クーパー主演、1956年)をとりあげます。南北戦争を背景に、北インディアナ州の農園で平和に暮らすクエーカー教徒の日常と、彼らが戦争に巻き込まれてゆく姿を描いた佳品です。

真面目さとユーモア感覚のバランスが見事で、思わず笑ってしまうシーンの続出です。それが作品を豊かなものにしているからでしょう。本作は1957年度カンヌ映画祭のグランプリを受賞しています。

映画の初めのほうに登場する、クエーカー教徒の集会の場面を以下にご紹介します。全編の伏線にもなっている部分です。

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日曜朝の集会(礼拝)。沈黙が支配する場に北軍の大佐(右足負傷)が入ってくる。
  大佐:戦争の現状を話しに来ました。
  女性牧師:そのことについては私たちも憂慮し、祈っています。
  大佐:クエーカーの男性は戦おうとしませんね。
  女性牧師:何人かは戦ってます。
  大佐:みんなに奨励はしていないでしょう?
  女性牧師:ええ。
  大佐:戦争はもう2年も続いていて血が流されています。自由のために数千人が命を捧げたんですよ。
  女性牧師:奴隷制度には反対です。でも、一人の人間を解放するために別の一人を殺すことは、正しくありません。
  大佐:そういった原則の問題を超えて、我々自身の命や家を守る戦いになってきているんです。
  大佐:(男性たちのほうを向いて)諸君を守るために仲間が死んでいる。(目の前の若い男Aに)どうして戦おうとしないんだ。
  A:戦う誘惑に駆られますよ。罪深い血が騒ぎますから。だから感情に振り回されないように自分を抑えるようにしています。戦場に出たら、どんなことをしでかすかわからないんです。
  大佐:隣の君は?
  B(女性牧師の長男ジョシュ):(しばらく沈黙した後)わからないんです。
  大佐:正直な答えだ。みんな戦うのが恐いから教会に身を隠しているのか? 人まかせで身を守ってもらうつもりなのか! 誰か答えてくれないか!
  C:(長老の一人。激しい口調で)わしが言おう! 同胞に銃を向けたくない。わしの家を燃やし家族を襲うがいい。断固として言う。迷えるジョシュよ、よく聞いておけ。誰もわしに暴力を強制できんのだ。
  D(女性牧師の夫):それは、ちょっときつすぎやしないか。襲われたら何をするか誰にも分からんさ。
  C:信念がゆらいでいるようだな。
  D:自分に正直に話しているだけさ。妻や子どもが襲われたり危険にさらされたらどうするか、よく自問するよ。そういう時が来たら、祈って神のおっしゃるように行動するだけだ。
  大佐:それが、もう目の前に来てるんだよ!
  D:そうかもしれん。神がお心を示してくださり、我々がそれに従えるように祈るだけだ。
  女性牧師:(あきらめたように出ていく大佐を見つめながら)主よ、汝の子らに、あなたの愛を与えてください。悪と暴力に立ち向かうために、剣を鋤に、槍を鎌に変えてください。平和の子らが永遠に戦争を経験することがありませんように。
  会衆一同:アーメン。

物語の後半。戦火が激しさを増し、南軍に家を燃やされ家族を襲われた上記の男C(長老の一人)が豹変し、自宅で槇割りをしている男Dに、「行動しなきゃ平和は保てんぞ」と迫るシーンから、言動に責任をもつことの難しさを考えさせられます。

JELA事務局長
森川 博己

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2018/03/19

【信仰書あれこれ】ダイジェスト版ですますにはもったいない本

子ども時代にダイジェスト版を読んでわかった気になり、その作品の真の姿に触れずじまいのことが往々にしてあります。私にとってそのような一冊が、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』でした。

数年前に旺文社文庫(大橋吉之輔訳、1967年、上下巻)で本作を読み、大きな感動をおぼえました。幾人かの登場人物や、主人公トムの確固たるキリスト信仰が全編を支配する、不滅の傑作です。

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村岡花子(『赤毛のアン』の訳者)が「アンクル・トムの小屋を読んで」と題した短文で、次のように書いています。
  二月のある日曜のことであった。教会堂に座って祈っていた時、ストウ夫人の閉じた目の前を、一列の哀れな黒人が通る幻影が映った。それは売られていく奴隷の一群であった。その悲惨さは、彼女の胸をかきむしった。家に帰って子どもたちと語った時、彼女は決然として、「私は書く。必ず書く」と誓った。と、こういうエピソードが語り継がれている。……人々はこの物語に涙をしぼった。世論は怫然として起こり、ついに奴隷売買の是非を戦争によって決めるまでに至ったのだ。(本書下巻459頁)
  文学が戦争を起こすとはよくよくのことである。かつてキリスト教関係の国際会議が日本で開かれた時、音楽委員として来日した黒人歌手が私の家を訪問したが、机の上にあった、私の訳した『アンクル・トム』を見るや否や「おお! アンクル・トム!」と言って、その本を書き抱いたのを、いまだにまざまざと憶えている。(下巻460頁)

アメリカ南北戦争186165年)の原因のひとつが本書であったことを、上記の文で初めて知りました。多数の人々に読まれ、心ある読者の正義感を鼓舞したのでしょう。

本編から数カ所引用します。以下の部分はマタイ福音書544を彷彿とさせます。
  「聖書が言っているように、おらたちをよこしまに扱う人らのために祈るのだ」と、トムが言った。
「あいつらのために祈れだって?」クロウおばさん(*トムの妻)が言った。「それは、あんまりじゃないか。あたしにゃ、できないよ」
「これもなりゆきだよ、クロウ。なりゆきってのは、どうしようもないんだ。だが、神様のお恵みは、なりゆきなんかより、もっともっと強いんだよ。あのようなことをする人間の哀れな魂は、どんなに気の毒なものか考えなくちゃなんねえだ。クロウ、おまえは、自分がそんな人間でないことを感謝しなきゃいけねえだよ。おらは、そのような人間が、どんな責任を負わなきゃならねえかと考えたら、何万べんとなく(自分が奴隷として)売りに出されているほうがましだと思うだよ」(上巻100頁)

次の部分は、ダニエル書31418を想起させます。トムの話し相手レグリーは暴虐な農園主。トムを買い取り、ついには彼をなぐり殺してしまう悪漢です。
  「いいかい、神様なんて、おめえさんを救っちゃくれねえってわかったろう。救ってくれるつもりなら、俺にお前を買わせなどしなかっただろうぜ! おめえの言う宗教なんてのはな、みんな、嘘つきでいいかげんなもんだぜ、トム。俺にゃちゃんとわかってるんだ。俺についたほうが利口だぜ……」
「いいえ、だんな」と、トムは言った。「おらは今まで通り神様におすがりしますだ。神様が、助けてくださろうと、くださらなかろうと、最後まで神様を信じ、おすがりしますだ」
「どえらいあほうだな、おめえ!」と、レグリーは軽蔑したように彼に唾を吐きかけ、足で蹴とばした。「まあ、いいわい。今に見ておれ、俺がぎゅうぎゅうとっちめてやるからな!」(下巻329頁)

ダイジェストしか知らずに読んだ気になっている、キリスト信仰にもとづく重要な作品と言えば、『ロビンソン・クルーソー漂流記』もそうです。いつかこの欄でご紹介できればよいのですが

JELA事務局長
森川 博己

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2018/03/16

【信仰書あれこれ】一冊だけ手もとに置けるとしたら

本日は、我が家の狭い書斎を占有する神学書・信仰書の中で、一冊だけ手もとに残せるとしたらどれにするか、このことについて考えます。

頭の体操になるだけでなく、自分の信仰の内実を知る上でも有益な作業です。現時点での我がベスト・オブ・ベストを選んでみました。

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現時点で私が(自分のために)一冊だけ取り置くとするなら、宮本武之助著『聖書のことば』(1977年、潮文社)になります。著者は宗教哲学の専門家で、東京神学大学教授、東京女子大学学長を経験され、本書執筆当時はフェリス女学院の院長だったようです。

本書の次のような記述を読むたびに、聖書とともにずっと持っていたい本だという気持ちを新たにさせられます。

  私たちの目は光のない闇の中では、何ものをも見ることができない。私たちの知性は、神を照らし出すほどの光を持っていないので、神から光が来ないならば、私たちは神について何事も知ることができない。……神に関して私たちの知性が正しく働くことができるようになるためには、まず神から来る光によって私たちの心が照らされ、神の言葉を聞き、神を信じるようにならねばならない。神に関して知性の働きが信仰に先立つのではなく、信仰が知性の働きに先立つ。しかし信仰は、知性の働きを否定するものではなく、むしろその働きによって自らの内容を深く内に読み取り、知解することを求めるのである。(13頁)

  神信仰は神から来る光によって私たちの心が照らされ、私たちが神の言葉を聞くことによってはじめて生じる。この意味において信仰は主観的ではなく客観的である。信仰は、私たちの信仰を根拠づける真理を、その真理そのものの力によって受け入れることである。このように私たちの信仰を根拠づける真理が、聖書の言う神の言葉である。(14頁)

  いつの時代も人々は、自らの欲する神を求めてやまなかったので、創造者である神を正しく認めることができなかった。(中略)神が創造者であるということは、……世界の発生に関する学説なのではない。それは神が全世界の主であるということである。それゆえ創造者である神を信じるということは、私たちが主である神に服従するということである。(中略)私たちがこの世界の主である神を愛し、この神に服従するとき、この世界における私たちの生は、これまでとは異なった意味を獲得し、私たちは真の人間になる。創造者である神を信じるということは、すべてのものの主である神を心を尽くして愛し、この神に力を尽くして従うことである。(2223頁)

  聖書の語るところによると、神は本来一切を超越しており、この世に不在であるかのように、私たちに隠されているのである。ところがこの神は、キリスト・イエスを通して私たちに語りかけ、私たちとの間に人格的関係、「我と汝」の関係を造り出す主体である。この隠されている神との人格的関係に、私たちの全存在を賭けることが、キリスト教の言う信仰にほかならない。そしてキリスト教が語ることは、すべてこの神信仰にもとづいているのである。(219220頁)

この本は、著者が東京女子大学とフェリス女学院大学の学内礼拝で語ったことをもとに、書き改めたものです。「神を知る前提」「聖霊の働き」「罪に死んで神に生きる者」「共に生きうる根拠」など68の項目すべてが、上記のようにわかりやすく、克明に、力強く語られています。

JELA事務局長
森川 博己

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【カンボジア・ワークキャンプ2018】現地からの感謝の便り

2月にJELAが実施したカンボジア・ワークキャンプについて、現地で協力して作業を行った団体LWDの事務局長から感謝のメールが届きましたので、ご紹介します。
*原文の英語をJELA事務局が訳しました。

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JELA及びカンボジア・ワークキャンプに参加された皆様へ

この2月にカンボジアにお越しになり、私たちの団体LWDと支援対象の学校をご訪問くださり、ありがとうございます。

JELAとLWDが建設した学校のトイレ敷設作業のために、皆様は貴重な時間を捧げてくださいました。日本からわざわざ来てくださったことを、本当にありがたく思っています。皆様が実際にこの地にお見えになったことは、私たちが子どもたちへ更なる支援をするための大きな励ましとなりました。

JELAのご支援のおかげで、たくさんの良いことが起こりましたが、その最大のものは、子どもたちがウキウキした顔で新しい教室に通えるようになったことと、そのすぐそばにトイレができたことです。

今回のプロジェクトでご覧になったように、LWDはカンボジアの子どもたちや弱い立場にある人々のために最善を尽くしています。これからも皆様とご一緒に、困難な中にある子どもたちや人々を支援できれば思っています。もしLWDが皆様のためにご協力できることがありましたら、遠慮なくお申し出ください。

将来またお目にかかれる日を楽しみにしています。
皆様のご協力とご支援に重ねて感謝いたします。

2018年3月16日
LWD事務局長
スオン ソフィープ

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2018/03/12

【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】キャロル宣教師らがルーテル東京教会の夜の礼拝でテゼの奉仕

ギターの後藤牧師、ハープのキャロル宣教師
3月11日、ルーテル東京教会(東京都新宿区)の夜の礼拝で、リラ・プレカリアのキャロル・サック宣教師と修了生の石田とも子さん(3期生)、中村律子さん(6期生)の3人がテゼ(黙想と祈りの集い)の奉仕を行いました。

3人は、同教会の後藤直紀牧師のギターと歌に合わせてハープと歌で「Ubi caritas」、「Jesus Remember Me」などを賛美しました。

礼拝には、約30人が集い、311日の被災者への慰めを祈りました。

左から石田さん、中村さん、キャロル宣教師。ギター後藤牧師
会場に集まったリラ・プレカリアのキャロル宣教師と修了生
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リラ・プレカリア(祈りのたて琴)とは、ハープと歌で祈りを届ける活動です。

【関連リンク】
リラ・プレカリア(祈りのたて琴)関連ニュース(ブログ)
日本福音ルーテル社団(JELA)ホームページ

【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】修了生3名が3.11集会で音楽による祈り捧げる


東日本大震災から7年目の311日、日本福音ルーテル教会東教区主催の「3.11」集会がルーテル東京教会(東京都新宿区)で開かれ、リラ・プレカリア修了生の綱春子さん(1期生)、大石千絵さん(4期生)、坂本千歳さん(6期生)の3名が、ハープと歌による祈りを捧げました。

集まった人々は震災から7年の歳月を振り返り、これからも被災地の方々に寄り添っていくことを誓いました。

左から坂本さん、大石さん、綱さん