2018/08/20

【信仰書あれこれ】愛と祈りのことば

『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』(ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳、2000年、PHP文庫457)をとりあげます。

20年近く前、初めてインドに出張し、コルカタ(昔のカルカッタ)にある「神の愛の宣教者会」本部を訪れました。日本から一緒に行ったカトリックの女性が、建物内のある場所で跪いて十字を切りました。あとで本人に確かめると、そこはマザー・テレサの遺体が保管されている場所なのでした。何も考えずに通り過ぎた自分を恥ずかしく思ったものです。

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以下に、マザーが毎日の生活で遭遇した「事件」から語った言葉をいくつか引用します。

  • ある夜のこと、一人の男性が訪ねてきて、「八人の子持ちのヒンズー教徒の家族が、このところ何も食べていません。食べるものがないのです」と告げてくれました。そこで私は、一食に十分なお米を持ってその家に行きました。そこには、目だけが飛び出している子どもたちの飢えた顔があり、その顔がすべてを物語っていました。母親は私からお米を受け取ると、それを半分に分けて、家から出て行きました。しばらくして戻って来たので、「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか」と尋ねました。「彼らもお腹を空かしているのです」という答えが返って来ました。「彼ら」というのは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことで、そこにも同じく八人の子どもがおり、やはり食べる物がなかったのでした。(44頁)
  • 数年前のことですが、カルカッタに砂糖不足が起きたことがあります。ある日のこと、四歳ぐらいの男の子が両親と一緒に私のところへ来ました。砂糖を入れた小さな容器をたずさえて。その入れ物を私に渡しながら男の子が言いました。「僕は、三日間お砂糖を食べるのを我慢したんだ。だから、これがそのお砂糖。マザーのところにいる子どもたちにあげてね」。この男の子は深い愛を持っていたのです。そしてその愛を、このような自分の我慢で表わしました。……この子は、大人から私のことを聞いた時に、自分のお砂糖を我慢する決心をしたのでした。(45~46頁)
  • ある日のこと、若い男女が修道院を訪れて面会を求め、私にたくさんのお金をくれました。「どこから、こんなに多額のお金を手に入れたのですか」と私は尋ねました。「二日前に結婚したばかりです。結婚する前から、私たちは結婚式を大がかりにしないこと、披露宴や新婚旅行をしないと決めていたのです。そのために使わないで済んだお金を、マザーのお仕事のために使っていただきたいのです」。このような決心をすることが、特にヒンズー教の家庭でどんなに難しいかを私は知っていました。ですから私はあえて尋ねました。「でもどうして、そんな風に考えついたのですか」。「私たちはお互い同士、深く愛し合っています。だから、私たちの愛の喜びを、マザーのもとにいる人びとと分かち合いたかったのです」。(50~51頁)


最後に、マザーの働きの核心とも言える彼女の言葉を二つ引用します。

  • 貧しい人が飢えで死んだ場合、それを神様のせいにしてはなりません。あなたや私がその人が必要としていたものを与えようとしなかったからなのです。つまり、私たちが神様の愛を伝える御手の道具になろうとせず、パンの一切れを与えることなく、寒さから守ってやる衣服を与えようとしなかった結果なのです。キリストが、寒さに凍え、飢えで死にかけた人の姿をとって再びこの世に来給うこと、淋しさに打ちひしがれた人の姿、温かい家庭を求める、さまよう子どもの姿をとって来給うことに気づかなかった結果なのです。(61頁)
  • 私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。彼らはイエスその方だから仕えるのです。(72頁)


どのページをあけても、このようなエピソード、言葉がぎっしりつまった本です。

JELA事務局長
森川 博己

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