2018年12月12日水曜日

【世界の子ども支援】12月16日にルーテル保谷教会でクリスマスコンサートを開催

今年も明治学院中学校ハンドベルクワイアによる「親子で祝うクリスマス・チャリティコンサート」が12月16日(日)午後1時30分から日本福音ルーテル教会保谷教会で行われます。

当日会場で集められた献金は、JELAのインド少女支援のために捧げられます。近隣の方、お時間のある方は、コンサートに参加いただければ幸いです。

会場の詳細は、下記の保谷教会ホームページをご参照ください。
http://www.jelc-houya.org/map.html

どうぞよろしくお願いいたします。


【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2018年12月4日火曜日

【信仰書あれこれ】自伝的説教論


加藤常昭著『自伝的説教論』(2003年、キリスト新聞社)をとりあげます。

本書発行時点で著者は74歳。その人生のほぼ半分、38歳までの歩みを記したものです。

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自分の趣味と牧師の務めとの関係
  • 今でも自分が最も愛しているのは、やはり演劇であると思っている。ただそれだけに芝居を観に行くことを自分に禁じている。往き始めたらとことん観ないと気が済まない性癖が、日常の生活を破壊しかねないと危ぶんでいるからである。(84~85頁)
  • 歌うことと説教することとは同じだと思う。歌もまた人の心に訴え、動かし、説得する。それは単なる技巧ではなく、内面から生まれる力である。(88頁)
  • 詩は本来、そのまま朗唱された。その言葉の響き、抑揚が生かされた曲こそが優れており、それをそのように歌う。言葉、そのリズム、それに自然に結びつく音楽、それを自分の歌として体得すること、その修練は、言葉を語り生かす説教のために、どれだけ役立ったことであろうか。説教の言葉も生きた言葉として語られ、聞かれるべきものなのである。(92頁)

説教についての学び
  • (神学校)最終学年で……説教実習をした。……私は、ローマの信徒への手紙第1章17節について説教させられた。……実際に語った時の原稿が残っている。批評の言葉が加えられている。そのひとつは、ルターとニグレンの引用が重要なところで用いられていることである。なぜ大切なところで、権威あると思われる神学者の引用に逃れて、説教者自身の言葉でメッセージを語ろうとしないのか、という批判である。これは、痛烈な批判である。忘れることができない言葉となった。(156頁)
  • 私は……全文を書いてからメモを作るという説教学の教えを守らなかった。そうすると一度書いた文章を再現することに心を奪われるように思った。そこで、メモを書くだけで、あとは自由に語るようにした。メモには、説教を語る順序、そこで語るべきことの要点、引用する文章、言及する人名、地名を書き留めておく。それ以上の詳細な表現も、いろいろ考えはするが、記録しない。……これは新しい経験であった。言葉に乱れが生じ、くどくなったりする。しかし、言葉が生きてきたことは確かであった。聴き手の反応が分かり始めた。(169頁)

キリスト教とお盆
  • 私の母は、植村正久から洗礼を受けてはいたが、その母に育てられた家には仏壇があった。毎朝、小さな器に米飯を盛って備え、灯明を灯して鉦をチンと鳴らしていた。……子どもたちは、母の行為をからかい、偶像礼拝を捨てきらないと批判した。……私も納得できず、あるとき、母にその真意を問うた。母は、こんなことを言った。……仏壇に位牌がある故人は、仏教信仰を持って死に、仏式で葬られた。死んだ後にも自分が、その信仰に従って供養されることを願いつつ死んだのではないか。それを裏切るわけにはいかない。独身時代に洗礼を受けた時、自分が結婚した後の家庭で、どれだけ自分の信仰を重んじてもらえるか、絶えず問うたそうである。……自分がキリスト者としてそう願うのであれば、他の信仰に生きた人々もまた、同じように重んじてあげたい。お前たちの代になって、仏壇が消えても仕方がないが、暫くは、こうしてあげたいのだと言ったのである。(182~183頁)

伝道を始めた頃から現在まで持ち続けている問い
  • 金沢で伝道を始めてすぐに……私の心の中に生まれた問いがある。今でも残り続けている問いである。それは、ごく素朴な問いであるとともに、教会のありようを問う基本的な問いである。(中略)教会堂に身を運び、日曜日の午前10時から昼までの時間を私たちと共に過ごし得るということ、これは自明のことではない。この場所と時間を確保するために、皆それぞれに戦っている。しかし、それができない人々には神の言葉は届かず、神の恵みは及ばないということであろうか。その上に、石川県下に教会堂もない町村はたくさんある。曜日を問わず、毎日のように集会を開いてもよいのではないか。神の救いは、日曜日午前の教会堂というところに限定されるのであろうか。伝道者である牧師は、主日礼拝に説教していればそれでよいのであろうか。すべての者に聖日厳守を求めるべきであろうか。私が抱き続けている問いは、これである。(191~194頁)

大好きな演劇鑑賞を、本来の務めをおろそかにしないために禁じているという厳しさ。最後の「問い」には、著者の伝道者魂を感じさせます。

JELA理事
森川博己

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【信仰書あれこれ】思い出の植村正久

斎藤勇著『思い出の人々』(1965年、新教出版社)をとりあげます。

著者は英文学研究の第一人者であり、植村正久に薫陶を受けたキリスト信徒です。植村正久は、内村鑑三と同時代に生き、日本のプロテスタント・キリスト教の礎を築いた巨人です。

本書には、内村鑑三、新渡戸稲造高倉徳太郎羽仁もと子など、錚々たる人物との著者の交流が記されていますが、以下では、植村正久に関する部分のみをご紹介します。

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羽仁もと子の植村正久への感謝
  • 植村に対する羽仁夫人の尊敬や追慕の心は、(彼女の)『著作集』第14巻「半生を語る」の中に記されている。「先生は……数年に渡って、毎週一度私たちの家で熱心な集まりをしてくださった。……私たちはそのおかげで、本当に唯み名を崇めるために自分たちはあるのである、唯み国を来たらせるために働くのである、ということが初めて真実、自分のいのちになったのである」。自由学園創立の動機もここにあったであろう。(50~51頁)

植村正久の働きの広さ
  • 植村正久は、富士見町教会の牧師として、東京神学社(東京神学大学の前進)の校長として、また『福音新報』の主筆として、優に三人分の劇務を全うした。しかもそのいずれもが、精力絶倫な偉人でなければ到底なし得ない大きな事業であった。彼はキリストの福音のために事を計れば必ず聡明、実行においては常に不屈不撓、日本におけるキリスト教会の基礎を据えた英傑であった。しかもそれと同時に、細心な注意と真心から出た同情とをもって、一々の魂を数知れぬほど夥しく教え育てた大牧師であった。(203頁)

植村正久と説教
  • 説教がただ文学としての価値を目安として読まれるべきものではないこと、もちろんであります。しかし、偉大な説教には文学としても不朽の価値を有するものが少なくありません。したがって文学的価値が高いということは、その説教者が文化人としても優れた功績をあげた人である、ということになります。そして植村先生は、明治から大正にかけて、我が国における最大文化人の一人であります。(228頁)
  • ある日曜の朝、この富士見町教会で私も伺った説教の初めに、「今朝は他のことを話すつもりで来たのであるが、先ほど礼拝に出て来た人の顔を見て、まったく別の違った話をする気になった」という意味のお断りがあったこともあります。そういう時は、一匹の迷える羊を思う牧者としての熟誠が自ずからほとばしり出た説教となったのであります。(231頁)
  • 1899年の『福音新報』には、説教者の心得とすべき一文が載っております。それは、リチャード・バックスターという英国清教主義牧師のことを書いた短い文章です。「彼の講壇に上るや、前進の能力と同情とを悉く注ぎだし、自らも燃ゆるばかりの熱心になりて、而して後に聴衆をも燃ゆるばかりの熱心とならしめんことを願えるという。彼自ら己が説教の状態とその目的を真率に語って曰く、……I preached as never sure to preach again, And as a dying man to dying men.……もう二度と説教する機会があるまいと思って、死にかけた人が死にかけた人たちに対してするように説教した、……先生もこの覚悟を持って命がけの説教をした方であったと思います。(231~233頁)
  • バックスターに関する文章の続きはこうです――「今日の教会において、甚だ嘆かわしく思わるるは、講壇の調子の衰えたることなり。美わしき説教や面白き説教はこれあらん。されど真に人の心に迫った悔改を促し、そのうなだれたる霊を励まし、憂い悲しめる者に限りなき慰藉を与うる力あるものは稀なり。その原因は要するに説教者自ら熱する所なく、特に主張せんとする思想を懐かず、深く罪悪と戦いてこれを悔改する経験乏しく、基督の恩寵に生活するの味わいを知らざる者多きにありと言わざるべからず。(233頁)

植村正久については十巻近い著作集や全集も出ていますが、手ごろなもののとしては、『日本の説教2 植村正久』(2003年、日本キリスト教団出版局)や斎藤勇編『植村正久文集』(岩波文庫)があります。

JELA理事
森川博己

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【関連リンク】 

【国際青年交流奨学金】支援の学生が最終発表!「土への愛」語る

有機農法について語るクラウディウスさん
「土を愛することを学んだ」と話すのは、クラウディウス・ブディアントさんだ。クラウディウスさんは、インドネシアの北中央ジャワ・キリスト教会の牧師で、JELAの奨学金支援を得てアジア学院(ARI)で有機農法を6ヵ月間学んだ。

12月3日には、ARIを会場に、クラウディウスさんらによる最終発表会が行われ、JELAの上級顧問ローウェル・グリテベック博士と奈良部慎平職員が出席した。

発表でクラウディウスさんは、「神と隣人を愛することを説いてきたが、アジア学院に来たことで土を愛することの大切さも学んだ」と語り、「神が創造した地球(=土)は人間に必要不可欠なものであり、かけがえのない土を生かす有機農法は神の御心にかなうものだと思う」と説いた。

最終発表を行うクラウディウスさん
クラウディウスさんは、12月10日に帰国し、インドネシアの農村での伝道活動と生活向上に貢献したいと抱負を語っている。

【キーワード】
アジア学院(ARI)とは、栃木県那須塩原市にある発展途上国の農村指導者らの育成を行っている専門学校。JELAは毎年、アジア学院(ARI)で学ぶ学生を支援している。

グリテベック博士とクラウディウスさん
奈良部JELA職員、クラウディウスさん、荒川朋子校長

【関連リンク】

2018年12月3日月曜日

【緊急災害支援】西日本豪雨災害 被災学生への奨学金


1126日、JELAの古屋四朗理事と渡辺薫事務局長が、広島女学院を訪問しました。
今年7月の西日本豪雨災害の被災学生に奨学金を届ける面談のためです。
この奨学金のストーリーは、今年8月に「西日本豪雨災害のために」という手書きのメモとともに捧げられた多額の寄付金から始まります。それは、2011年の東日本大震災の際に、JELAがサポートした学生のご親族から寄せられたものでした。 その方は、あの震災後でも学業に専念できたことへの感謝を、今、支援を必要としている方への思いへと変えて、JELAに多額の寄附を預けて下さったのです。
それから、JELAは西日本地区のいくつかの学校を調べ、キリスト教に基づく隣人愛を教育の中心に置く広島女学院にたどりつくことができました。

格式高い広島女学院正門
広島女学院は、1886年に開設された、大変長い歴史をもつ名門校です。校訓である「CUM DEO LABORAMUS(我らは神と共に働く者なり)」の言葉が校内のあらゆるところで目にとまりました。
面談した学生は、大学・高等学校あわせて4名。床上浸水で大変ご苦労されながら、全壊・半壊までの被害でなかったために、公けの救済範囲に入れず、学費が家計を圧迫することに心を痛めている様子でした。


JELAからの奨学金の額を告げると、一様に安心の色が頬に浮かびました。

学生との面談にのぞむ古屋常務理事(正面右)と
渡辺事務局長(正面左)

JELA NEWS 475ページ「クリスマス祝いた~にも掲載されましたが、東日本から寄付してくださった方は、まさしく天に宝を積み、その宝が今回西日本へ送られたのだと思います。JELAがその仲介役になれたことに感謝あふれる広島訪問となりました。

今回の奨学金には、日本福音ルーテル市ヶ谷教会で行われたLOVEコンサートの席上献金も含まれています。

お金の使い方を選ぶ「自由」を、このような尊い方法のために用いて下さった方々を、また、この選択の理由である神様の愛を、奨学生のみなさんはこれからの人生の様々な岐路で、きっと思い出して下さることでしょう。
すべての恵みの源泉である神様に感謝します。


クリスマス点灯式を終えた美しい正門

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2018年11月30日金曜日

【信仰書あれこれ】生活のスパイス


聖フランシスコ・サレジオのすすめ――生活のスパイス365日』(改訂版2006年、ドン・ボスコ社)をとりあげます。

胸ポケットに入りそうな薄い小冊子(値段も手ごろ)です。一つひとつの短い言葉にスパイスが利いていて有益です。ちなみに矢印の後の言葉は森川の個人的な感想です。いくぶん「遊んでいる」部分がありますので、まじめ一筋の方は、矢印の後は読まないことをお勧めします。

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  • 永遠のためにならないものは、むなしいものばかりです。
    → 初球から160キロ超の直球です、空しいものばかりため込んでいる私には。
  • つらいことや悲しいことがあったとき、聖人たちはもっと不快なことを喜んで耐え忍んでいたことを思い出し、勇気を奮い起こしましょう。
    → これを実践するためには、苦悩の渦中で、それにはまり込むのではなく、一呼吸おいて自分を客観視する訓練やユーモア感覚が求められる気がします。
  • 徳の実践とは、あれこれ考えるよりも、主に信頼して自由に歩むように努めることです。
    → 冬の朝、布団から出ようかどうか悩んでいる時に思い浮かべるべき言葉です。
  • 他人を、神との関係において見ない人は、清く平等に根気強く愛することはむずかしいでしょう。
    → 恐らくどんなことも、「神との関係において見る」がキーワードなのでしょう。
  • 最も虫の好かない人に対して、何度も、柔和と愛徳を実践しましょう。
    → わかっているけど、できそうにないと感じる。ということは、本当はわかっていない、ということか。「何度も」が付くことでハードルが一気に上がります。
  • 自分の不完全さを知って不安になってはいけません。こうして私たちは自愛心や自分を過度に評価する危険から救われるので、むしろ喜ばねばならないくらいです。
    → 我が毎日を「喜び」に変えてくれる言葉です。
  • 自分の判断を捨てることほど、むずかしいことはありません。謙虚で完全になるために、これ以上必要なものはありません。
    → 実行するのが困難か否かということではなく、必要か否かということがキモだということですね。もちろん「神様の目から見て、今のあなたに必要」という限定的視点が入るのでしょう。
  • 霊的乾燥の中で行われた神に対する一つの愛の業は、楽にできたときの数多くの業より値打ちがあります。
    → 私がキャッチャーの時に何度も盗塁ができて喜ばないで、ソフトバンクの甲斐がキャッチャーの時に一つでも盗塁を成功させなさい、ということ……かな?
  • すべての必要事と仕事において、神を信頼しなさい。そうすれば常に成功するに違いありません。
    → この場合の「成功」は「神の目から見て」ということですね。定義上、神が失敗することはありえませんから。
  • あなたの生活を見た人が、同じように信心深くなろうと励みたくなるように、あなたの信心を愛すべきものにしてください。
    → こんなコラムばかり書いてないで、外に出て行って困っている人を助けなさい、という声が聞こえてきました。
  • なんの善も行わず、一日過ごしてしまうことは、大いなる悪です。
    → 激辛スパイシーです。単なる悪ではなく「大いなる悪」だという点がポイントか。
  • 実現不可能な偉大な事業を果たそうと情熱を燃やすよりも、私たちに与えられた小さな機会に忠実であることを神は望んでおられます。
    → 「大切なことは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめてしたかです」(マザー・テレサ)に似てます。まず求められるのは、与えられている「機会」を見逃さないことです。
  • 最も優れて、獲得すべきことは単純さです。
    → 自分ではずっと前に獲得しているように思いますが、恐らく私の考えている「単純さ」の中身と上記のそれは大きく異なるのでしょう。

数ページ眺めただけで、これだけのスパイスてんこ盛りです。これが120ページも続くのですから、お買い得です。

JELA理事
森川博己

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【信仰書あれこれ】C・S・ルイスと昼食を共にできたら


A・E・マクグラス著『C・S・ルイスの読み方――物語で真実を伝える』(2018年、教文館)をとりあげます。原書(2014年)のタイトルは”If I Had Lunch With C.S.Lewis”。

本書は、ルイスと昼食を共にすることができたならルイスは何を語ったであろうか、と著者が想像して書いたものです。悲しみに直面する人に、無神論者を友人に持つキリスト者に、キリスト信仰を最も適切に説明する仕方について悩んでいる人に、自分の信仰に疑いを抱いている人に……我々が人生にまつわる問題と格闘し、よりよい社会人になるためにルイスがどのように助けてくれるかを明らかにしようとしています。

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直観から導かれるもの
  • 人間には深い感情や直観があり、それは時空的存在を超えるところにある豊かなもの、我々の存在を豊かにするものがあることを直感していることをルイスは知っていた。人間の内には、深く、また強烈な憧れの感情があり、それは現世的な事物や現世の体験によっては満たされないものであるとルイスは言う。ルイスはこの感覚を「喜び」と呼んだ。そして、「喜び」の感覚は、それの究極的な源泉であるもの、目標であるもの、つまり神を直観しているのだと言う。神は、単純愚直な無神論や、だらけた不可知論などから我々を呼び覚ますために「喜びの矢」を我々の心に打ちこみ、我々の故郷に通ずる道を発見するのを助けようとしている。(27頁)

キリスト教という枠組みの首尾一貫性
  • 世界は曖昧模糊としており、焦点がないように見えるかもしれない。そのために我々は世界に秩序を見ることができない。だからこそ、我々は焦点を見定めるためにレンズを必要とする。ルイスにとってキリスト教はレンズを提供し、我々が存在全体をより明瞭に見るようにしてくれる。あるいは、譬を変えれば、我々はただの騒音ではなく、メロディーを聞くようになる。(35頁)
  • ルイスはこの「大きな見取り図」が、我々自身の人生のような個々の小さなことの意味も解明してくれると言う。……我々は大きな図像の中に置かれ、そこに一定の場所を与えられる。その図像は、我々なしには完結しない。我々に見慣れた世界が、より永続的で堅固なるものであることを理解する。存在全体の大きな全体像を把握することは、我々自身の世界を――及び我々自身を――よりよく理解することになる。(35頁)

物語を生きる人間
  • 私たちは誰でも物語のうちに生きている。物語は私たちの人生に形を与える「メタナラティブ*」である。……私たちの中のある者は社会の進歩という西洋特有の物語を想定して、その中で生きている。文明は(技術的に、社会的に、道徳的に)常に改善されていると考えている。他の人々はラジオやテレビが一日中流しているトークショーが売り物にする物語、個人の進歩という物語の中に生きている。つまり、最も大事なのは個人であり、よりよい情報、より多くの情報がよりよい自分を有機的に作り出すのだとされる。……そこで、ルイスは再び訊く。「君はどの物語のうちに生きているのだろうか。君は君の物語を賢明に選んだだろうか。君が君自身に語る物語に疑問を持ち、現実に合っていないのではないかと考えたことはないだろうか」。(64頁)
    *注:ナラティブは歴史物語とほぼ同じ意味で用いられる。日本書紀も平家物語もクロニクル形式で書かれているが、ナラティブである。ナルニア国物語もナラティブである。それらのナラティブは特定の目的や狙いを伝えるために語られる。メタナラティブの目的は、諸々のナラティブの意図や狙いが何なのか、それらの物語の中に生きる人々が作る社会がどのようなものになるかについて解明することである。(238頁)
  • 私たちはそれぞれ自分自身のユニークな物語を持っている。しかし、私たち自身の物語は「壮大な歴史物語」、私たちの物語に新たな意味と重要性を与える「大いなる物語」に結びつけられなければならない。……私たち自身の物語はより大きな何ものかによって枠が与えられており、それによって私たちは価値と目的を与えられる。ある意味では、信仰とはこのより大きな物語を心に受け入れ、私たち自身の物語をその一部とすることである。(78頁)
  • 信仰には、古い自分に死に、復活して新しい生命に生きるということを伴っている。……ルイスはこの主題をナルニア国歴史物語として翻案する。我々は物事についての自分自身の判断基準(準拠枠Frames of Reference)を持つことをやめる。私たちは自分自身の物語が罠になり得ること、その罠にかかって、自分は自分で作った牢獄の囚人になり得ることを知るようになる。私たちは、純粋に利己的な思いや行動のうちに閉じ込められる可能性がある。(80頁)

本書には、ルイスの著作(『ナルニア国物語』『キリスト教の精髄』など多数)を読むための手引き的な役割も与えられています。

JELA理事
森川博己

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【関連リンク】

【信仰書あれこれ】人生の四季

ポール・トゥルニエ著『人生の四季――発展と成熟』(三浦安子訳、1970年、ヨルダン社)をとりあげます。

医師である著者は、精神療法の技術とキリスト教的人間理解に基づいて、人間を全人格的に把握することによって初めて真の医療がなし得る、と考えます。

本書では、人間の生涯は絶え間ない発展の途上にあり、人生には誰もが必ず経なければならない様々な時期があって、時期ごとに神の計画が定められていることを唱えます。

以下では、子供から大人へ成長するために重要な役割を担う四つの要素(愛・苦悩・同化・順応<適応>)を説明した部分を引用します。

◇◆◇

<愛>
  • 両親の愛がたとえどれほど大きくても、それだけで子供の欲求を完全に満たすことは不可能……です。聖書はこのことをよく知っていて、人間というものはこの地上で絶えず焦燥に駆られ、無口で、頑固で、幻滅を味わいながら、失われた楽園への懐郷の念を苦くかみしめていなければならないのだと、私たちに告げています。この問題に対する解答が、神の愛なのです。(中略)近代人の特徴であり、現代文学に非常によく取り上げられているこの世の悲劇的な孤独に対する唯一の有効かつ偉大な解答は、個人を対象として注がれる神の愛です。(58~59頁)

<苦悩>
  • 苦悩そのものは決して価値のあるものではありません。……私たちが苦悩をどのように体験するかという、苦悩の受け止め方を問題にしているわけです。……私たち医師の任務は、可能な限り、身体的な苦痛や精神的苦悩に打ちひしがれている人間の味方となることにありますが、それと同時に、その苦悩や苦痛を意義ある体験たらしめるように助力することにあるのです。(60~61頁)

<同化>
  • たった一つ、無限に同化しうる対象があります。……私の同僚のアサジョリ博士の講演を聴いたことがあります。その講演で彼は、使徒パウロが、「私は生きる。しかしもはや私が生きているのではなくて、キリストが私の内にあって生きたもうのだ」<ガラテヤ書2・20>と言い表したようなイエス・キリストとの同化こそ大切なのだ、という主張を行ったのです。しかし……若い人が自分の選択を確定する前は、相対立するいろいろな立場の哲学を一通り学び知っておくことが出来れば、非常に有益だと思います。……私たちは自己放棄に至るためにはまず、のびのびと自己を展開させておかなければならないのです。はじめに自己主張するすべを最もよくわきまえていた人こそ、長じては最もよく自己を否定しうるようになるでしょう。(63~64頁)

<順応(適応)>
  • ある両親は子供を気遣うあまり、あらゆる緊張を自分の子供の周りから取り除いてやり、その子を人生の危機から保護しすぎています。こういう両親はその子をいつまでも子供の段階にとどめ、その子の発達を妨げ、その子が後になって、大人になってからも人生に適応していくことが全然できないようにしてしまっているのです。これとは反対に……早すぎる時期にあまりにも困難な適応を子供に強制しすぎる親もあります。こういう親たちは子供を老化させてしまい、このように本当に子供ではありえなかった子供は、その後、成人すべき年齢に達しても完全に一人前の大人にはなれないのです。(65頁)
  • 神が、「人が一人でいるのはよくない」と言われて、人に彼と性を異にする一人の女性を配偶者として与えられた時、神はこれによって人間に次のような課題を与えられたのでした。すなわち、人間は互いに適応するという一つの困難な課題に自分をさらさなければいけない、そして、その際、自分が降伏してしまうか、また相手を屈服させてしまうかのどちらかによって葛藤を回避することなしに、自己克服によって葛藤を真に解決しなければいけない、つまり、神は人間に本当の意味で成熟することを要求され、そのように人間に仕向けられたのです。(66頁)

本書は最近、日本キリスト教団出版局から復刊されました。

JELA理事
森川博己

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【関連リンク】 

【宣教師支援】短期宣教師たちとのランゲージエクスチェンジ実施中!

JELAは、毎年10月に、ELCA (Evangelical Lutheran Church in America) から、数名の短期宣教師(J3)を迎えて、熊本の学校へ英語教師として派遣されるまでの数か月、日本語研修の支援をおこなっています。

今年の3人の新しいJ3たち (エリンエリカジョーダン) が来日して、もうすぐ2ヶ月。

今年初めての取り組みとして、不定期ですが、J3と職員でランゲージエクスチェンジ・ランチを始めました。

ランゲージエクスチェンジ……それは、それぞれが持つ語学力を交換しながら、異文化交流も深めてしまう一石二鳥の取り組みです!

基本的に、J3は日本語で、職員は英語で会話をするようにします。

なんと表現したら良いのかわからない時は、聞いたり調べたりしながら、何度も言い直してお互いに趣味の話や休日の話をしています。
今後は、英語もしくは日本語だけの日、など変化をもたせていければと考えています。
これからも、お互いの語学のスキルアップに繋がる時間を持っていきます。

J3とのランゲージエクスチェンジ・ランチは、12月中旬まで、JELA事務局近辺で行われます。
参加をご希望の方は、jela@jela.or.jp までご連絡下さい♪

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2018年11月19日月曜日

【信仰書あれこれ】説教・伝道・戦後をめぐって

平野克己編『聞き書き・加藤常昭――説教・伝道・戦後をめぐって』(2018年、教文館)をとりあげます。

2017年の夏の二日間に、四人の日本人キリスト教教職者が聞き手となり、米寿を迎えた加藤常昭氏と説教や伝道などについて自由に話し合った内容をまとめたものです。

以下で引用するのはすべて加藤氏の発言です。

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牧師の使命が「職業化」することの問題
  • ……「あっ、牧師の務めは怠けることもできる」と気付きました。ルーティーンワークになって、忙しくしていて「いつもの通りに準備して、いつもの通りに説教していればいい」という誘惑に駆られます。……「自分にとって牧師が職業化している」、職業としての牧師職が成り立ち始めていると感じた時に、とても怖くなりました。その時に、一生に一度ですけど、「牧師は辞めた方がいい。こんな不誠実なことはない。牧師という商売をやったらダメだ。現状では、商売になりつつあるじゃないか、お前」という気持ちになりました。……「牧師を辞めなくてはいけない。そうしないと神様に対して不誠実だ」と問いました。(56~57頁)
  • ……牧師は皆忙しい。結婚式、葬儀、堅信礼教育……。そうすると、説教を手早くまとめるようになって、日曜日に説教という言葉を語ることに上手になっていきます。(中略)牧師が職業化し、説教も一種の職業的営みの中で固定化していきます。固定化すると何が起こるかというと、いのちがなくなるんですよ。(124頁)

説教に求められること
  • 説教者を問う』の中でも、アメリカの歌手のトンプソンによる、オランダでの歌手育成のセミナーの例を挙げています。その時にアルトの歌手が行き詰ったような歌い方をした時に、「あなたは聴き手なんか無視しなさい。自分自身のために歌いなさい」って言っています。その歌手をくるっと後ろ向きにさせ、歌わせています。私は非常に感動しました。自分自身を生かすことができない歌が、聴き手を生かすことがあるでしょうか。……説教は自分自身を新しい悔い改めに誘い、キリストによって義人として装われるというプロセスをいつも起こす説教であるはずです。(147頁)
  • 私が実践神学を教わった平賀徳造先生がよく言われたのは「説教というのは御前講義である」ということです。……平賀先生は、私たちは、神の御前、キリストの御前で語っているのだと言っておられました。(148~149頁)
  • 日本は幸いにして、説教によって自分の礼拝出席を左右するという考え方はありません。それでも、逆に言うと、それで牧師が怠けていることがあると私は見ています。それで、信徒はその牧師がどんな説教をしようが、めったに何も言わないでしょう。それが一つの日本での困った状態を作っている……。(168頁)

自由祈祷の大切さ
  • 私は自由祈祷を非常に重んじています。式文祈祷でないほうがいいと思っているんですよ。聖餐の祝いの時でも自由祈祷です。……プロテスタントの基本は自由祈祷だと思います。だから礼拝の祈りはもう当然のことで、自由な祈りができなくてはいけません。……自由に言葉を発した時に、いつもフレッシュな祈りになっているということが大切です。日頃の祈りの生活が問われることだと思っています。日頃どんなに生きた交わりを主イエスと交しているか。……今の日本でいきいきと信仰に生きている時に、牧師がどんなに力のある自由祈祷ができるかということです。長老も信徒も含めて、教会が生きているしるしになると私は思っています。(169~170頁)

LGBTについて
  • なぜそういうことが現代において表面に出て来るかというと、今、人間は自分中心のものの考え方しかしないでしょう。聖書の言葉よりも、自分の思い、願い、欲望が先なんです。そういうことではなくて、神のみ言葉の前では自分のどんな思いも、抑制するとか捨てるとかいう決断があるはずだと思います。そういう意味では、対応しながら、そういうふうに導くことができないかなという思いがあるんです。だから基本的にはあまり賛成できない。……それは、キリスト者の倫理としても単純に許されることではありません。ただ、律法主義的に裁くことでもないのです。なぜかというと、万人の中にある一つの傾向が、神の戒めに背くというのは、例えばそういう形で出て来ると思うからです。そのことについて同情は持たなくてはいけません。だからと言って、賛成するということでもないと思います。(248~249頁)

加藤常昭氏はキリスト新聞社発行の『自伝的説教論』と『自伝的伝道論』においても、自身のキリスト信徒・牧師・神学者としての歩みを詳細に振り返っていて、参考になる面が多々あります。

JELA理事
森川博己

【信仰書あれこれ】日ごとの恵みを与えてくれる本

ジョージ・ダンカン著『日ごとの恵み――ケズイックの霊想』(増田誉雄訳、1981年、いのちのことば社、原著は1975年)をとりあげます。

副題にある「ケズイック」というのは、ケズイック・コンベンションのことであり、イギリスを発祥とする、ホーリネスが始めた超教派のキリスト教の聖会です。日本でも毎年行われていて、ジョージ・ダンカン氏は1963年から80年にかけて、講師として5回来日されています。

以下では、二つの黙想を引用します。

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生きることは建てること(9~10頁)
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7・24)
  • (前半略)主イエスは、人の生には決定的な要素というものがあることを示している。機会は全ての人に平等に与えられている。ここに出て来る二種類の人たちも、主のことばを聞く機会を平等に与えられている。しかし、それぞれ異なった選択をしており、それが決定的なものになっている。このことはまた、教会に集う人々についても言える。同じ教会に出席し、同じ説教を聞き、同じ聖書を持っていながら、各人各様の選択をする。そして、それが人生に決定的なものをもたらすのである。……聖書は全体を通して、すべての選択の中で、主イエス・キリストに対する選択の態度ほど重要なものはないと強調している。これは、今の世における生だけでなく、来るべき世における生をも決定する。それゆえ、自分の、主に対する態度がどうなっているかを、時間をかけて省みなければならない。私たちは、主のことばを聞いて信仰を働かせ、みことばに服従してそれを行う者となっているだろうか。

確信(13~14頁)
「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(Ⅱテモテ1・12)
  • もし私が営業に携わるとするなら、二つのことで非常に明確に確信を持つことにしたい。まず、自分が販売しようとする商品の価値について確信を持たなければならない。次に、その商品に対する需要があることを確信しなければならない。……優秀なセールスマンにとって本質的に重要なことは、商品価値とか、サービス内容の価値、またそれに対する需要のあることについての強い確信を持つことである。キリスト者の生活についても同様である。「確信していること」が出発点となる。周知のように、初代教会のキリスト者たちは、自分たちの提供しているものの絶大な価値に強い確信を持っていた。……したがって、私たちがまず、より豊かな、満ち足りたキリスト経験に入ることが、何をおいてもしなければならない緊急事である。それは、より豊かないのちにあずかるためばかりでなく、キリスト経験の尊い価値を確信し、他の人々にそれを伝授するためである。もろもろの罪の赦しということを別にしても、日々の実際生活で他の人々に分かち与えるに価する何かを、私たちは持っているであろうか。初代教会において、それはまさにキリスト経験そのものであった。この経験は完全に心を満足させるものであり、驚異的な価値のあるものであったので、初代のキリスト者たちは、キリストご自身を高く掲げて宣べ伝えたのである。

この本は、以前に紹介したO・ハレスビーの『みことばの糧』と並んで、毎日のデボーションに特別に有益なものだと思います。

JELA理事
森川博己

サムエルカン・ワーシップコンサートに、キャロル・サック宣教師が出演 ♪

サムエル・カンさんは、日本各地の教会や集会、社会福祉施設にて賛美奉仕・コンサート活動を行うゴスペル・シンガーです。

3枚目となるアルバム作成に取り組む中、どうしても、詩編55:22をテーマとした楽曲にハープの音色と祈りの歌声を入れたい、とJELA事務局にリクエストを寄せられ、リラ・プレカリアのディレクターを務めたキャロル宣教師とのコンサート共演が実現しました。


「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩編55:22)

「ともに神様を見上げ、励ましをいただく時間を持ちましょう」と、キャロル宣教師とも息ぴったりのリハーサルでした。

本番もぜひお楽しみに、お足運びください!

【サムエルカン・ワーシップコンサート】
日時:2018年12月4日(火)18:00(会場)/18:30(開演) 入場無料
会場:OCC御茶ノ水クリスチャンセンター 8Fチャペル

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