小松左京・高階秀爾著『絵の言葉 新版』(2009年、青土社)をとりあげます。信仰書ではありませんが、キリスト教信仰と関連する絵画を吟味する部分が興味深いです。
小松氏はSF作家として有名ですが、むしろ、博覧強記の評論家というべき存在です。一方、高階氏は、ルネサンス期以降の西洋美術を専門とする高名な学者であり、二人が縦横に語り合う絵画論は、興味尽きない内容です。対談形式で自由に話が展開するので、読みやすいですが、内容的にはとても深いものがあります。
以下、キリスト教に関する部分の一部をご紹介します。
高階:カインのアベル殺しを絵とか彫刻にするときに、文章には殺した手段は出てこないけれども、画家なり彫刻家なりは、カインが棍棒でアベルを殴り殺したのか、あるいは鍬みたいなもので殺したのか、首を絞めたのか、具体性を持った表現を考えざるを得ない。それで今ではカインのアベル殺しの手段は棍棒か鍬という伝統ができちゃっていますけれども、それは結局イラストレイターの独創なんですね。
高階:そうです。直接にはミケランジェロの「ピエタ」から来ていて、要するに死んだ人の姿なんです。これは当時たいへん流行して、ポントルモ(イタリアの画家、1494~1556?)の「十字架降下」のキリストなども、ミケランジェロそのままです。しかしミケランジェロのピエタの姿というのも、実はキリスト教と無関係にギリシャからあって、あれは戦場で死んだ死者の形です。寝ている人と死んだ人を区別するのに、形で表わすときには死者の場合かならず片手をだらんと下げるのです。これは一種の極まり文句になっているのですね。
小松:芝居の型みたいなものだな。
高階:そうです。……だから、その赤ん坊のイエスはもちろん死んでいるわけではないけれども、当然あとの運命を暗示している、という意識的な描き方がされているのです。そこまで読み取らずに、単に近代的な造形的な面だけを見ていては、少なくとも画家の意図は伝わらない。
小松:絵の含んでいるそういうコミュニケーション・エレメントを無視して、造形性とかいうような一面だけで評価する時代が、ここしばらく続いていたわけですな。
この対談は、もともと『エナジー対話 第3号 絵の言葉』(1975年12月、非売品)として刊行され、後に講談社学術文庫に収められました。ご紹介した本は「新版」となっていますが、内容的には昔のままのようです。ただし、対談した両氏が、2009年時点でおもったことを、それぞれ数頁分書き加えています。
絵の見方を教えてくれる卓抜な対談です。
小松氏はSF作家として有名ですが、むしろ、博覧強記の評論家というべき存在です。一方、高階氏は、ルネサンス期以降の西洋美術を専門とする高名な学者であり、二人が縦横に語り合う絵画論は、興味尽きない内容です。対談形式で自由に話が展開するので、読みやすいですが、内容的にはとても深いものがあります。
以下、キリスト教に関する部分の一部をご紹介します。
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- 聖書と絵画(本書12~13頁)
高階:カインのアベル殺しを絵とか彫刻にするときに、文章には殺した手段は出てこないけれども、画家なり彫刻家なりは、カインが棍棒でアベルを殴り殺したのか、あるいは鍬みたいなもので殺したのか、首を絞めたのか、具体性を持った表現を考えざるを得ない。それで今ではカインのアベル殺しの手段は棍棒か鍬という伝統ができちゃっていますけれども、それは結局イラストレイターの独創なんですね。
- 表現された型(26~28頁)
高階:パルミジアニーノ(イタリアの画家、1503~40)に「首の長い聖母」と呼ばれている有名な聖母子像があります。……マリアの膝の上の赤ん坊のイエス・キリストが、普通の聖母子像と違って、目を閉じて斜めになっていて、片手をだらんと下げて、足を半ば開いた不可解な形をしているのです。
小松:「ピエタ」ですね。高階:そうです。直接にはミケランジェロの「ピエタ」から来ていて、要するに死んだ人の姿なんです。これは当時たいへん流行して、ポントルモ(イタリアの画家、1494~1556?)の「十字架降下」のキリストなども、ミケランジェロそのままです。しかしミケランジェロのピエタの姿というのも、実はキリスト教と無関係にギリシャからあって、あれは戦場で死んだ死者の形です。寝ている人と死んだ人を区別するのに、形で表わすときには死者の場合かならず片手をだらんと下げるのです。これは一種の極まり文句になっているのですね。
小松:芝居の型みたいなものだな。
高階:そうです。……だから、その赤ん坊のイエスはもちろん死んでいるわけではないけれども、当然あとの運命を暗示している、という意識的な描き方がされているのです。そこまで読み取らずに、単に近代的な造形的な面だけを見ていては、少なくとも画家の意図は伝わらない。
小松:絵の含んでいるそういうコミュニケーション・エレメントを無視して、造形性とかいうような一面だけで評価する時代が、ここしばらく続いていたわけですな。
- 身ぶり・身なり・表情など(37~38頁)
高階:マサッチオ(イタリアの画家、1401~29)の「楽園追放」に描かれているアダムとエヴァの身ぶりというのが、その意味でたいへん面白いのです。楽園を追放されるアダムは顔を両手で押さえ、エヴァは上を向いて手で胸を押さえているわけですね。これは当時のベネディクト派修道院で――今でも修道院はそうですが――夕方から朝まで無言の時間があって、その間は必要なことは手で話していた。15世紀のそういう手話の辞典が残っていて、それによると、胸に手を当てるというのは悲しみのシンボル、両手で目を覆うというのは恥ずかしさのシンボルなんですね。それから考えるとマサッチオは、エヴァは楽園喪失を悲しんでいるけれども罪の意識はなく、アダムは罪の意識で恥じている、という解釈で描いていると見ていい。恐らく当時あの絵を見る人は、そこまで読み込んでいたと思いますね。
この対談は、もともと『エナジー対話 第3号 絵の言葉』(1975年12月、非売品)として刊行され、後に講談社学術文庫に収められました。ご紹介した本は「新版」となっていますが、内容的には昔のままのようです。ただし、対談した両氏が、2009年時点でおもったことを、それぞれ数頁分書き加えています。
絵の見方を教えてくれる卓抜な対談です。
JELA事務局長
森川 博己
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