季刊誌『ミニストリー』(キリスト新聞社)の「シリーズ・日本の説教者」12回分と、『キリスト新聞』掲載のひとつの記事をまとめたものです。
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あくまで聖書に固着すること(164~65頁)
- 「カトリック教会では以前から『こうしなさい』『ああしなさい』という説教が多かったのですが、それが私にはどうしてもだめで……。あるドイツの学者が『福音とは、我々が神のために何をすべきかということについての知らせではなく、神が我々のために何をしたかという知らせだ』と言っていて、確かにそうだと」。
- 「聖書が最も嫌っているのは偶像です。偶像というのは結局、人間の願望の投影ということになります。そういうものではなく、神のことばを聞きたいというのが私の興味なんです。ですから、この文章はこういう成り立ちと構成になっているという話になるわけです。聞いてくださる方の生活や環境はみんな違うわけですから、私がひとつの体験を押しつけるのではなくて、聖書のことばを聞いてくださった方が何かを考えるというのが筋なんじゃないかと思います」。
ピンチをチャンスととらえ、じっくりと腰を据えて(170~71頁)
- 今日のカトリック教会が抱える課題は、他のプロテスタント諸教会とほとんど変わらない。献身者が少ない。神学を教えることのできる人材が育っていない。大学を維持するためには定員を増やさざるを得ず、増やせば神学に興味のない学生も入ってくる。おのずと、神学生を育てるという雰囲気は希薄になる。教会の現状も厳しく、地方はもちろん、東京でさえ共同司牧が必要なところが生まれている。「でも、かえってチャンスかもしれません。今まで神父に頼り切っていた信徒たちが、これではだめだと考え、努力を始めています」。
- 「疲れ果ててしまっている神父が多いような気がします。どうせじたばたしたって、どうにもならないことはどうにもならない。あわてずに腰を据えて神のことばにしっかりと聞く訓練をしたほうが、力が出てくるんじゃないかと思います。行動すれば、確かに手っ取り早い感動は得られますが、長持ちしません」。
聖書が分かるようになるには(173~74頁)
- 「その世界に入り込むことができれば、意味も理解できる。昔のものといって避けずに読むことが大切」と雨宮は言う。
- 「……詩編 が今日的意義を持っているとすれば、子どもの時に誰もが知っていた、絶対的な庇護者を求める心を思い出させるということなんじゃないでしょうか」。
- 「聖書を理解するためには、頭がいいかどうかはあまり関係ないと思うんですよ。別の何かが必要で、それが育ってくると分かったということになる。そうでないと、私も大学の時はそうでしたが、話としては分かるけど、それが何だという感じ。そのズレをどう埋めるか、どう待ち続けるかということなのかなと思います」。
JELA理事・森川博己
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日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト