2018/09/11

【信仰書あれこれ】福音の記憶

岩島忠彦著『説教集 福音の記憶』(2006年、教友社)をとりあげます。岩島氏の著作は以前に『説教集 みことばを生きる』をとりあげましたが、いずれも中身が濃く、この人の本は全部読むべき気がしています。

本書のあとがきで著者は、イグナチオ・デ・ロヨラが『霊操』で「霊魂の三能力」つまり記憶・知性・意志を順次用いて祈ることをいつも勧めていることや、アウグスチヌスも霊魂は記憶・知性・意志からなっているとしばしば述べ、この三者が相互に関連しながら独自の働きをするものだとしていることに触れながら、「記憶」が自分自身の本源的なありようを意識する(想起する)といった深みを失い、コンピュータのメモリや記憶喪失症のように機能的で平板な意味内容しか示さなくなったと問題提議します。

本書は、本来の意味での「記憶」、それも福音書に埋め込まれた三重の記憶(イエス・キリストの記憶、弟子たちの記憶、私たちの記憶)を呼び覚ますための説教を書籍化したものです。

以下では、本書とりあげられた40の説教の一つ「流れる時」をご紹介します。

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聖書箇所はルカ18章1~8節、不正な裁判官に自分の相手を裁いてほしいと、あきらめることなく迫り、最終的に裁判官を動かすやもめの話です。

著者はまず、ドイツの神学者J・B・メッツがよく使う二つの概念、「現代の無時間性」と「断絶」について説明します。
  • 車などでよく聞くリクエスト番組などは、私たちも知っています。曲の合間にどのような悲惨な事件や自然災害のニュースが流れても、多くの人はもう心を動かすこともない。全体がBGMとなって流れていく。……昨日と同じ今日、今日と同じ明日。周りや自分自身に何が起ころうと、そこに立ち止ろうとしない、すべてを平板化して均していってします。そこでは事実「何も起こらない」、自分にとっての「時」とならない。出来事も出来事とならない。ただ流れていくだけ、流されていくだけ。このようにメッツは、すべてを把握しつつも何ものにも感動させられたり深みを揺さぶられたりすることのない現代人の心情を、無時間性という言葉に託して憂慮しています。(63~64頁)
  • 同じメッツに、次のような“命題”があります。「宗教のもっとも短い定義=断絶」。彼にとって、それは「流れる時」の断絶のことです。すべてルティーンとなっていく生の流れにおいて、それを断ち切り、今を今としてくれるものはこの世の事柄ではなく、神様と自分との関わりだけだというのです。(64頁)

この世に流されずに、神の前に自らを置く行為としての祈り
  • 地上の事柄に精通しただけでなく、その世界にすっぽり順応してしまった現代人に、まだ「信仰」の余地が残されているのだろうか。この「無意味な業」の循環を断ち切ることができるのが、神様のみ前に自分を置くことなのです。イエスはこれを「絶えざる祈り」と言っておられます。(64頁)
  • 宗教に無関心で、隣人に人のレベルで関わらず、基本的に自我とその欲が「ルール」となって働く世。そこでいかに神様に祈ろうと、そう簡単にはこの世の「ルール」は変化しない。イエスは、そこであきらめて自分もそれに同化してしまってはいけないと訴えておられます。……しっかりと希望を保って、流されることなく自分の足で神様の前に立ち続けるということです。「絶えざる祈り」とは、どのようなときにも神様に相対し、そこからしっかり生き続ける姿勢を指すのだと思います。そのとき、私たちの生は虚無的な流れではなく、色彩と深みを持つものとして甦ることでしょう。(65頁)

以下の締めくくり部分に共感をおぼえます。

  • 今週の月曜日には洗礼を授けた老婦人の葬儀を行い、火曜日には縁のある四人の様々な年齢の方々の洗礼式を行いました。それぞれの方の大切な「時」に立ち会わせていただいたとの思いがあります。自分自身も残された「時」を、これまでとも違う独自のものとしてくださるように神様にお願いしています。(65頁)

JELA事務局長
森川 博己

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