この欄では以前、森有正+加藤常昭+古屋安雄の鼎談『現代のアレオパゴス』を紹介しました。今回のものは、著者が全国5か所で行った講演集です。
以下では、1970年10月25日に青山学院で行われた講演「経験について」の一部をご紹介します。
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真実の「経験」がないことによる問題
- 「経験」というのは、ある一つの現実に直面いたしまして、その現実によって私どもがある変容を受ける、ある変化を受ける、ある作用を受ける、それに私どもは反応いたしまして、ある新しい行為に転ずる、そういう一番深い私どもの現実との触れ合い、それを私は「経験」という名で呼ぶのですけれど、敗戦は決していわゆる本当の意味で敗戦としては経験されなかった。……大部分の国民にとってこの敗戦が本当の敗戦としての「経験」になっていなかったということ、このことについて今日いろいろな冷厳な事実が出て来て、私どもを非常にとまどわせ、多くの処置を誤らせた、ということがあると思います。このことは決して忘れてはならないと思います。(16~17頁)
「私」とは、真実の「経験」の総体のこと
- その経験ということに、ある時目覚めた時に、その経験の全体が自分なのだ、それが一人の人間というものの意味なのだ、つまり、私が経験を持っていることを本当の意味で感じる、あるいは経験を持っていることを経験すると言うのはおかしいけれども、私どもの現実が実は私の経験そのものである。そして私自体である。私の言う現実は経験によって見られた事実で、主観的な現実では全然ありません。ここにマイクがある。それだけではこのマイクは私とは何の関係もないもので、ここで私がマイクを使用することによって私の経験のうちに入っているわけです。(28頁)
言葉を正しく用いるには、それが示す実体を自分で「経験」することが不可欠
- 私どもは正直という言葉も、愛という言葉も、エゴイズムという言葉も、小学生のころから全部知っているわけです。しかし、それが何を意味するかということは、私どもの前にその実体が現れた時に分かるわけです。私どもは……平和という言葉を使うし、正義という言葉も使うし、いろいろな言葉を使うけれども、それを付ける実体を私どもは持っていますか。問題はそれですよ。……私どもは小学校の時から教わった数千、数万の言葉を定着させることのできる経験の実体というものを、私どもが持っているかどうかという問題です。それに結びつけられたものを持っていないで言葉だけをもてあそびますと、どんなことでも言えるし、どんなことでもできるわけです。その時出て来るものは限りない混乱です。(47~48頁)
言葉の意味内容を「知る」ということ
- 私どもは本当にいい行為を見た場合に、これが善だということが分かるわけですよ。その時に昔から何億人かの人々が使っている善という言葉を、それに付ける。その時、私自身の経験として、私自身の行為において、善というものを知ったことになるわけです。善ということの定義は何だろうか、といってカントや何かを読んでも、善ということは絶対に分からない。一つの善に、私どもの生涯において、これが善だと私どもが呼んだものに出会った時に、初めてそれが私どもに対して生きた信仰になる、生きた経験になる、また人に向かってそれが説明できるようになる。(49頁)
上記の部分は、「信仰」を考える上でも意味があります。つまり、読んだり聞いたりしただけの教義や教理を一方的に振りかざすだけでは何の力もなく、その実体に触れた言葉だけが(信仰する)自分にとっても、(証しをする)他人に対しても説得力がある、ということでしょう。生きるキリストとの出会いによって、信仰の実体は与えられるはずです。
著者が説く「経験」を理解するために有益で入手しやすい本として、『思索と経験をめぐって』(森有正著、1976年、講談社学術文庫)があります。ここには、本講演「経験について」の全文と、「経験」の真の意味を理解する助けとなる「霧の朝」「変貌」「木々は光を浴びて」等の論稿が収められています。
JELA理事
森川博己
森川博己
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