2018/11/19

【信仰書あれこれ】説教・伝道・戦後をめぐって

平野克己編『聞き書き・加藤常昭――説教・伝道・戦後をめぐって』(2018年、教文館)をとりあげます。

2017年の夏の二日間に、四人の日本人キリスト教教職者が聞き手となり、米寿を迎えた加藤常昭氏と説教や伝道などについて自由に話し合った内容をまとめたものです。

以下で引用するのはすべて加藤氏の発言です。

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牧師の使命が「職業化」することの問題
  • ……「あっ、牧師の務めは怠けることもできる」と気付きました。ルーティーンワークになって、忙しくしていて「いつもの通りに準備して、いつもの通りに説教していればいい」という誘惑に駆られます。……「自分にとって牧師が職業化している」、職業としての牧師職が成り立ち始めていると感じた時に、とても怖くなりました。その時に、一生に一度ですけど、「牧師は辞めた方がいい。こんな不誠実なことはない。牧師という商売をやったらダメだ。現状では、商売になりつつあるじゃないか、お前」という気持ちになりました。……「牧師を辞めなくてはいけない。そうしないと神様に対して不誠実だ」と問いました。(56~57頁)
  • ……牧師は皆忙しい。結婚式、葬儀、堅信礼教育……。そうすると、説教を手早くまとめるようになって、日曜日に説教という言葉を語ることに上手になっていきます。(中略)牧師が職業化し、説教も一種の職業的営みの中で固定化していきます。固定化すると何が起こるかというと、いのちがなくなるんですよ。(124頁)

説教に求められること
  • 説教者を問う』の中でも、アメリカの歌手のトンプソンによる、オランダでの歌手育成のセミナーの例を挙げています。その時にアルトの歌手が行き詰ったような歌い方をした時に、「あなたは聴き手なんか無視しなさい。自分自身のために歌いなさい」って言っています。その歌手をくるっと後ろ向きにさせ、歌わせています。私は非常に感動しました。自分自身を生かすことができない歌が、聴き手を生かすことがあるでしょうか。……説教は自分自身を新しい悔い改めに誘い、キリストによって義人として装われるというプロセスをいつも起こす説教であるはずです。(147頁)
  • 私が実践神学を教わった平賀徳造先生がよく言われたのは「説教というのは御前講義である」ということです。……平賀先生は、私たちは、神の御前、キリストの御前で語っているのだと言っておられました。(148~149頁)
  • 日本は幸いにして、説教によって自分の礼拝出席を左右するという考え方はありません。それでも、逆に言うと、それで牧師が怠けていることがあると私は見ています。それで、信徒はその牧師がどんな説教をしようが、めったに何も言わないでしょう。それが一つの日本での困った状態を作っている……。(168頁)

自由祈祷の大切さ
  • 私は自由祈祷を非常に重んじています。式文祈祷でないほうがいいと思っているんですよ。聖餐の祝いの時でも自由祈祷です。……プロテスタントの基本は自由祈祷だと思います。だから礼拝の祈りはもう当然のことで、自由な祈りができなくてはいけません。……自由に言葉を発した時に、いつもフレッシュな祈りになっているということが大切です。日頃の祈りの生活が問われることだと思っています。日頃どんなに生きた交わりを主イエスと交しているか。……今の日本でいきいきと信仰に生きている時に、牧師がどんなに力のある自由祈祷ができるかということです。長老も信徒も含めて、教会が生きているしるしになると私は思っています。(169~170頁)

LGBTについて
  • なぜそういうことが現代において表面に出て来るかというと、今、人間は自分中心のものの考え方しかしないでしょう。聖書の言葉よりも、自分の思い、願い、欲望が先なんです。そういうことではなくて、神のみ言葉の前では自分のどんな思いも、抑制するとか捨てるとかいう決断があるはずだと思います。そういう意味では、対応しながら、そういうふうに導くことができないかなという思いがあるんです。だから基本的にはあまり賛成できない。……それは、キリスト者の倫理としても単純に許されることではありません。ただ、律法主義的に裁くことでもないのです。なぜかというと、万人の中にある一つの傾向が、神の戒めに背くというのは、例えばそういう形で出て来ると思うからです。そのことについて同情は持たなくてはいけません。だからと言って、賛成するということでもないと思います。(248~249頁)

加藤常昭氏はキリスト新聞社発行の『自伝的説教論』と『自伝的伝道論』においても、自身のキリスト信徒・牧師・神学者としての歩みを詳細に振り返っていて、参考になる面が多々あります。

JELA理事
森川博己