2018/06/04

【信仰書あれこれ】説教と説教者

D・M・ロイドジョンズ『説教と説教者』(小杉克己訳、1992年、いのちのことば社)をとりあげます。ロイドジョンズが1969年にウェストミンスター神学校で教職者・学生に行った講義を書籍化したものです。

エミール・ブルンナーが「改革派のもっとも洗練された説教」と評価した(本書10頁)ロイドジョンズの説教論・説教者論がどんなものか、以下の引用から感じとっていただければ幸いです。

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説教の重要性
  • 教会の歴史の中で退廃的であったのはいつも説教が衰微していたときであったことは明白でないでしょうか。改革やリバイバルの到来を告げるのは何だったかと言えば、それは説教の再開です。……再び真の説教がされ始めると、教会の歴史は常に新しい運動を生み出してきたのです。(37頁)

教会の第一の任務
  • 私は根本的命題として、教会の主要な責務は人々に教育を施すことでも、肉体的、心理的いやしを与えることでもなく、幸せにしてあげることでも、善人にすることもでもないと述べたいのです。これは救いに付随する事柄です。……教会の第一の目的はそられのどの一つでもなく、むしろ人々を神との正しい関係に導き、神と和解させることです。(44頁)

説教は人々に反省を迫るもの
  • 人々が私たちの言うことを聞いて、自分自身が心配になったり、自らを省みることがないなら、私たちは説教をしているのではありません。(80頁)

感動に支えられた語り
  • 説教者は語っている事柄に捉えられ、心奪われている事実を通して人々に感動を与えなくてはなりません。伝えたい題材が山ほどあり、どうにかしてこれを分かちたいと熱望します。自分自身大いに感銘し、感激しているので、ほかの人々にもこれを分かち合いたいと望むのです。さらに人々への気遣いから彼らに説教します。人々のことに心砕き、何とか彼らの助けになりたい、そして彼らに神の真理を教えたいとしきりに願います。そこで彼は精魂を傾け、情熱を燃やし、人びとに対するこのはっきりした気遣いをもって語るのです。換言すれば、みことばの真理から離れて語る説教者は、たとえどんなに立派で、真実ですばらしい事柄をあれこれ語っても、それだけなら説教者とは言えません。(127頁)

説教者として大事なもの
  • まず神の愛です。それに魂に対する愛、みことばに関する知識、そして自分の内に住んでいてくださる聖霊です。これらの事柄が備わって説教者になるのです。神の愛がその人の内にあり、彼に神に対する愛があるなら、また人々の魂に対する愛と心遣いがあり、聖書の真理を知り、御霊がその内におられるなら、その人は説教するようになるでしょう。(174頁)

礼拝で伝道説教を定期的に行うことの大切さ
  • 私(ロイドジョンズ)は何年間も自分をクリスチャンだと思っていました。しかし、実際は違っていたのです。自分がクリスチャンではないと分かり、クリスチャンになったのは後になってからです。それでも、私は教会の一員としてきちんと教会に出かけて礼拝を守っていました。ですからほとんどの説教者と同じく、だれもが私をクリスチャンだと考えていたのです。でもこれは私の状態に対する正しい評価ではなかったのです。私に必要だったのは私に罪を自覚させ、私の必要を知らせ、私を真の悔い改め に導き、そして新生とは何かを知らせてくれる説教でした。でも私はそれを聞いたことがなかったのです。(211~12頁)
近藤勝彦氏(前・東神大学長)は自著『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』(2002年、教文館)の88頁以下でロイドジョンズの説教の力強さに触れ、本書に言及しています。

本書は翻訳が見事なことから、非常にわかりやすく読みやすいです。

JELA事務局長
森川 博己

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