2019/08/01

【続・信仰書あれこれ】ヘルマン・ホイヴェルス神父の言葉

土居健郎・森田明=編『ホイヴェルス神父――信仰と思想』(聖母文庫、2003年)をとりあげます。

編者のひとりである土居健郎氏は、「甘えの構造」で有名なクリスチャン精神分析学者です。以前のこのシリーズで、同氏の講演集『甘え・病い・信仰』をとりあげています。


JELA理事・森川博己


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本書は、ヘルマン・ホイヴェルス神父と親交のあった何名かの方たちによる思い出、神父自身の多様で気の利いた言葉の数々、そして、日本に長く滞在された神父の日本人に対する考え方、の三部構成になっています。


以下では、神父自身の興味深い言葉のほんの一部をご紹介します。
  • 19世紀のある思想家は永遠の存在は退屈であると言ったが、それは愛を知らないからである。愛は退屈しない。(70頁)
  • 世の中の宗教は救いの宗教である。しかしなぜ救いの宗教であるかを、キリスト教だけが知っている。Schelerは面白いことを言った。「ギリシャ・東洋の理想は賢人である。神の理想は幼児である」。(72頁)
  • 偶像について――エジプト人が本当に牛などを神と考えたわけではない。彼らは象徴的な意味を解していた。しかし次第に象徴を本物と間違えるようになる。かくして心理学的には手段はいつの間にか目的と同一視されるに至る。(95頁)
  • 神を知ることはある程度哲学でも可能、しかし神に向かって出発するのは恩寵による。知ること、信ずること、従うことの間には〔跳び越えねばならぬ〕堀がある。(98頁)
  • 祈りとは神となつかしく交際することです。(101頁)
  • 祈りの基本は――自分の分かる範囲で、子供の心で神に信頼して、「神よあまりひどいことをしないでください」と祈ること。(101~2頁)
  • 宗教くさいのはよくない。下手な美術家のようなものです。いくらおいしいからといって、アイスやプリンばかりいつも食べているのは健康でないのと同じです。(102~3頁)
  • 信仰は教理のかたまりではない。あふれるようなもの、音楽のようにオールラウンドで心の隅々までうるおしてくるものである。(103頁)
  • 信仰は私たちから創るものではない。神のプレゼントです。だからあまり深く考えなくていい。神がなつかしくなればいい。(103頁)

ドイツでキリスト教生活を過ごした神父は、宣教師としてそれを日本の風土の中でどのように伝えるべきか悩まれたようで、以下にその思いが見て取れます。
  • ……日本人の心に紹介されるべきキリスト像に関して、私どもはもっと懸命に研究する必要があるでしょう。それには、ヨーロッパ的装飾(ヨーロッパの垢といった方が正しいかもしれませんが)を洗い落とさねばならないでしょう。ヨーロッパ的習慣と堅く結びついたキリスト教の姿は、多分しばしば日本人の単純直截な思考法や、美的宗教感情に受け入れがたいものがあるのではないでしょうか。真理でも霊でもない贅肉を捨て、啓示をもっと浄化し、人の心に直接射し込む光として備える必要があると思うのです。(136~7頁)

本書冒頭の「神父の人と生涯」(8~20頁)で、神父の盟友だったブルーノ・ビッター氏が次のような事実を記しています。
  • ホイヴェルス神父は1890年8月31日ドイツのウェストファーレン生まれ。来日は1923年の関東大震災のちょうど一週間前。
  • 1975年8月31日、85歳の誕生日にホイヴェルス神父本人からビッター氏が聞いた話によると、53年間の日本での宣教活動の間に神父から洗礼を受けた信者は3000人。神父は誇張してものを言わない人だったので、その数はさらに多い可能性がある。
  • 神父は1977年6月9日正午ごろに日本で永眠。6月14日午後1時から四ツ谷の聖イグナチオ教会で行われた葬儀ミサの参列者は2500人以上。参加者の心を大きく揺さぶるミサであった。
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