2018/05/01

【信仰書あれこれ】村岡花子のエッセイ集

村岡花子『曲がり角のその先に』(2014年、河出書房新社)をとりあげます。いろいろな雑誌に発表されたエッセイをまとめたものです。

著者は『赤毛のアン』を日本に紹介した人物。書名は、同書の終わり近くに出てくる、次のシーンからとられています。

年老いたマリラの視力に大きな問題が出てきました。事情を知ったアンは、家から通うには遠すぎる大学の奨学金を辞退することにします。孤児の自分を育ててくれたマリラを一人ぼっちにはできないからです。一方マリラは、やさしいアンが一緒にいてくれるのは嬉しいものの、将来の夢を捨ててまで自分に尽くそうとする姿に、やるせない気分になります。そんなマリラにアンはこう話しかけます。

「マリラ、この一週間というもの、ずっと考えていたのよ。私はここで生きることに最善を尽くすわ。そうすれば、いつかきっと、最大の収穫が自分に返って来ると思うの。クィーン学院を出た時は、私の未来は、まっすぐに一本道のように目の前にのびていたの。人生の節目節目となるような出来事も、道に沿って一里塚のように見わたせたわ。でも、今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がった向こうに、何があるか分からないけど、きっとすばらしい世界があるって信じているわ。」(松本侑子訳『赤毛のアン』集英社文庫、441頁)

『曲がり角のその先に』から、花子のキリスと信仰をうかがわせる二つのエッセイをご紹介します。


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●「こわされた時間表」(本書41~43ページ)初出1940年

若い教師が、一晩かけて作り上げた教案を手にクラスに臨みます。そして、今日の一時間でここまで教えようと、元気に黒板にチョークを走らせます。その時です。「先生!」と、もみじのような手が上がり、何日も前に教えたことを訊くのです。(まだ、わかってないの、と舌打ちしつつ)計画どおりに教えたい気持ちを抑えて、他の生徒に説明させようとしたところ、その子の受け答えも要を得ません。教師は仕方なく、一時間全部をこの問題に費やします。計画はおじゃん。著者は次のようにエッセイを締め括ります。

「もし、あの無邪気なる一人の少女が手を挙げなかったとして、計画どおりに教案が進行したとしたら、それは何と、土台の薄弱な知識であったろう。その前に、必要な土台石がまだ据えられていなかったのだ。その朝の学科は「砂の上に建てられた家」(森川注:マタイ福音書7:24~29参照)と成り果てるところであった。破られた計画、私たちの時間表をこわす邪魔、その邪魔の中にもまた、意義が潜んでいる。」

●「一つの心境」(本書57~58頁)初出1953年

中世の寓話――神が一人の天使に、悪魔の持つ数々の誘惑をとりあげてしまうように命じます。天使は悪魔のところに下り、人間を惑わすために用いた誘惑をすべてとりあげると宣告します。これに対して悪魔は、すべてを返納するが、「悲観」という極めて小さい、つまらなくて何の害にもならない個人的な誘惑だけは、持たせておいてほしいと嘆願します。天使は、悲観が単なる個人的な心境であり、積極的な害を生み出すものでないと判断して、悪魔の求めに応じます。

これに続けて、著者は「悲観」の本質を次のように説きます。

「悲観につづくものは憂鬱と頑固と怠慢と不勉強と、あらゆる不愉快、有害な生活態度である。……希望を失うところにさまざまな悪が入り込んでくる。無気力になり、非協力的になり、恨みと怒りと嫉妬と、その他すべての不愉快な人情が生じてきて、そして我々の住んでいる社会を住みにくい、文化性のない、低俗なものにするのに拍車をかける。(中略)希望なき時代ということをしばしば耳にし、また口にするものだが、それは軽々しく言ったり聞いたりできない重大な意義を含んでいる。希望なき時代たらしめないためにこそ努力しなければならない、得々として絶望を叫んでいるべきではないと思う。」

河出書房新社からはもう二冊、『腹心の友たちへ』『想像の翼にのって』という村岡花子のエッセイ集が出ています。『曲がり角のその先に』と同様に、『赤毛のアン』ファンにはおなじみのフレーズです。

JELA事務局長
森川 博己

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