2018/05/01

【信仰書あれこれ】苦しみや悲しみの意義

堀肇著『新版 こころの散歩道』(1998年、新版は2008年、いのちのことば社)をとりあげます。本書の内容は、「本来キリスト教信仰とは何か、教会とは何かを神学的問題としてではなく、日常生活から吟味するものとなっています」(帯文)

悲しみや苦しみの意義を考えるエッセイを三つご紹介します。それぞれが意味を補完し合っています。

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<喜びと悲しみは共に>
  • 問題を取り除きたい、解決したいとの願望があるということは、心のどこかで苦しみや悲しみというものは人生に邪魔なもの、悪いものだと考えてしまっている部分があるのではないか。(26頁)
  • 普通、私たちの人生態度は問題解決先行型なのです。これは仕事の上では結構なことで、そうしなくてはならないのが人間の生活です。ところが、……人生全般に対してこういう態度一辺倒ですと、苦しみや悲しみがやってきたとき、それと同じように、とにかく解決したい、取り去りたい、とばかり考えるようになってしまうのです。それがどんな意味を持ち、価値をもっているかというようなことにあまり頓着しないで、悪いものとして退けてしまいます。(27頁)
  • 信仰も問題解決型になりますと、幸せや喜びだけを歓迎し、苦しみや悲しみを退け、両者を切り離してしまいます。これは本来のキリスト教信仰とは言いがたいものです。(27頁)
  • 喜びと悲しみは仕方なく同居しているのではなく、本当に深みのある霊的な世界では、それらが調和的に存在しているように思えます。というより、実はこの二つはお互いを必要としていると言っていいかもしれません。つまり、本当の喜びは悲しみを通して現れてくるということです。(28頁)
  • 悲しみや苦しみというものを迷惑なもの、あってはならないものとして取り除こうとするならば、実は喜びも失うようなことになるのではないでしょうか。……イエスも「私の喜び」(ヨハネ15:11)と言われた喜びを十字架の苦しみを通して私たちに与えられた、という事実を心に刻んでおきたく思います。(29~30頁)
 <傷はあってもいい>
  • 人間は自ら痛むという経験がなければ、対人行動が奇妙で不可思議なものになってしまう可能性も出てくる……。ソロモンは『箴言』の中で、「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようなものであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」(25:20)と言って、人の心の痛みに対する無感覚を戒めています。(37頁)
  • 信仰というものは一つ方向がずれると、悩みの解決ばかりに焦点が置かれ、祈りにしても、癒され、解放されること、つまり苦痛の除去ばかりを求めるものになる可能性が出てくる……。(37~38頁)
  • 傷の痛みとは苦痛を伴うものですが、それは必要な、また健康な感覚であるということ、そして信仰はそういう感覚を無視したり軽視したりするものではないということです。むしろ信仰をもつということは痛みの現実をよく知り、その苦痛に共感できるようにされていくことではないかと思うのです。(39頁)
<摂理の秘密のうちに>
  • 人生の問題は、どんな種類のものであっても、そこには何らかの哲学的、宗教的(霊的)意味合いが含まれている(中略)。あまり原因や理由ばかり追求しないように……それをしますと、最後にはだれかを犯人にしないと落ち着かなくなるからです。それより、今この出来事が起こっている意味を考えて見ること、クリスチャンならば、神がこの出来事の中で何を語ろうとしておられるかを祈りの中で黙想し、洞察を深めることをお勧めする……。(43~45頁)
  • 出来事に対する意味についての洞察が深まりますと、それまで問題であると思っていたことが、あまり大したことではない、憎らしいと思っていた人が本当はいなくてはならい大切な存在なのだ、と思われてくるような瞬間が、突然に、あるいは徐々に訪れてくるのを体験することがあります。……それこそパスカルが言う「摂理の秘密のうちに隠されている分別」であり、本当の意味の解決である、と言っていいのだと思います。(45~46頁)
それぞれのエッセイ中に、関連聖句や別の信仰書からの引用があり、学習を深めるのに役立つ配慮がなされています。

JELA事務局長
森川 博己

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