2018/01/30

【信仰書あれこれ】宣教師と信徒の心に沁みるやりとり

今回は生前お付き合いのあった方の本を採り上げます。『正義と愛 ― ある弁護士の生活と祈り ― 』(石原寛著、1985年、聖文舎)です。故・石原先生には長年JELAの法律顧問をしていただきました。

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昭和25年に東大法学部に入学した当時を振り返り、天下を取ったような心持だったと著者は述懐します。ところが大学一年の終わりころに肺結核を患い入院。退院するまでの一年間に、お父様や親密なご親族の相次ぐ病死、近所の大火による実家の焼失など、大変な経験をなさいます。

その少し後に、生涯の恩師であるヌーディング宣教師との出会いが起こります。著者はその出会いの意味を次のように記します。

「もし、私にこの二十歳の時の打撃がなかったならば、東京の麹町一丁目にある先生のお宅を通りかかったとき、この(教会の)看板が目に触れなかったであろうし、たとえ触れたとしても、中に入ってみようとは思わなかったであろう。そして、先生を通して語られた聖書の言葉は、決して私の身体に沁みこまなかったであろう。……私は、この二十歳の時の不幸を、いま神様の賜物と思い、感謝でいっぱいである。」(本書12頁)

すばらしい出会いです。しかしそれ以上に、私がこの本でぜひとも紹介したいと思っているのは、次のエピソードです。

著者は司法試験に受かり裁判官になるか弁護士になるか迷い、先輩の勧めもあり裁判官の道を選ぶのですが、志望と異なり任地が奈良だったそうです。関西に縁がなく、未知の土地での生活の不安と、自分の希望が聞き入れられなかったことへの強い不満から、どうすべきかヌーディング先生に相談に行かれたとき、こんなやりとりがあったというのです。

「先生は、私の不満を静かに聞いてくださり、私が話し終わっても、しばらく黙っておられたが、最後に、片言の日本語で、ポツリと言われた。『でも、そこは、日本ですね』。
先生は、敗戦後の焼け跡の我が国に、故郷アメリカを離れ、遥か太平洋を越えて、やって来られたのである。そして、言葉も通じず、生活環境も異なる、当時はまだ未開発同様の国であったこの日本に、使命に燃えながら、不自由を忍んで暮らしておられたのである。私は、この言葉を聞いた時ほど、恥ずかしい思いをしたことはなかった。私は、この時、自分のいやしさ、みにくさを、いやというほど思い知らされ、それこそ、目のうろこが落ちた思いがした。『そこは、日本ですね』という先生の言葉が、今でも耳の底に残っている。」(本書71頁)

この箇所を読むといつも涙が湧いてきます。キリストの福音を伝えたいという宣教師の一途な思いと生き方、それを心から理解し、自分の狭量さを正直に反省する著者、二人の心の交流が読む者に迫ってくる文章です。

JELAの職員であることで、生前の石原先生と少し交流を持てたことを神様に感謝する次第です。

JELA事務局長
森川 博己

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