新年あけましておめでとうございます!
2017年に颯爽と登場した将棋界のプリンス、藤井聡太君の活躍は今年も続くことでしょう。そこで今日は、将棋を題材にキリストの福音を語る本、『聖書将棋談議』(相沢良一著、2000年、黒潮社。*アマゾン検索では見つからない本)をとりあげます。著者は牧師で、健在なら2017年で百歳です。
全部で87の短文からなり、以下は、「捨てる」と題された一編です。引用聖書は口語訳。◆は段落の初めを示し、読みやすさの観点から表記もごく一部を変更しました。
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◆手がゆき詰まった時、思い切ってあの駒、この駒を捨ててみて、起死回生の妙手を発見することがよくあるものだ。駒を惜しんでいるあいだは、将棋は強くなれない。大駒を惜しげもなく捨てることができるようになったら、しめたもの。◆このことは、何も将棋に限らない。人生には「身を捨てて浮かぶ瀬もあれ」である。◆使徒パウロは“しかし、私にとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。私は、さらに進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、私はすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている”(ピリピ人への手紙3:7~8)と述べている。◆パウロにとって“益であったこれらのもの”とは、彼が身につけていた地位であり、名誉であり、学問であり、財産であったのである。◆パウロはキリストのゆえに、それらを損、すなわち無用の長物と思い、さらに、それらをいっさい失ったが、キリスト・イエスを知る“あまりのすばらしさ”から比べてみると、それらは、ふん土のように思われたのである。◆我々は、主イエスのために、いったい何を失い、何を捨てたのであろうか。捨てるどころか、あれも欲しい、これも得たいと、この世のことに心を奪われているのではないだろうか。◆“自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私(=イエス)のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう”(マタイによる福音書16:25)とある。主のために捨てるべき、わが大駒は何か。
―『聖書将棋談議』47~48頁より
上で言う「キリストを知る」というのは、形式的理解のことではなく、聖霊によってキリストに出会わせていただく、という意味です。このようにして出会った主イエスと結ばれているために、どのような自分であることが求められているのか、キリストが忌み嫌われるものは何なのか、(日々示されているようにも感じますが)年の初めにあたり改めて吟味する必要を感じている次第です。
JELA事務局長
森川博己
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