2018/10/10

【信仰書あれこれ】ちいろば先生物語

三浦綾子著『ちいろば先生物語』(1990年、朝日文庫)をとりあげます。1986年1月から1年3か月『週刊朝日』に連載され、単行本として出版されたものを文庫にしたものです。

「ちいろば」とは、イエス・キリストがお乗りになったロバにからめ、この伝記小説の主人公である故・榎本保郎牧師が「ちいさなロバ」としての自分につけた呼び名です。

週刊誌連載のためか、各章に山場めいた話があり、以前に出て来た事柄が間隔を置いて再登場した時は、以前の分を読んでいない人のために、それを短く説明する工夫が施されており、読みやすいです。

以下では、本書の中で興味深い部分をいくつか引用します。

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中学5年を卒業した保郎は、教師になる夢を目指し、1943年4月に旅順の師範学校に入ります。そこで音楽教育のためのピアノのレッスンを受けるのですが、指の置き方・椅子の座り方が悪いと、保郎は教師に罵声と暴力を浴びせられ、ついていけなくなります。その時に唯一怒鳴られなかったピアノの上手な旧友が次のように言います。
  • 「僕の父は、しがない音楽教師だけどね、音楽で一番大事なのは、音楽が好きだということだ、といつも言うよ。文字通り音を楽しむことだってさ。下手でもいいんだって。楽しんでピアノを弾いていれば、そのうちに自然と椅子にかける姿勢も、指の角度も整うんだって。だから、僕がピアノを弾いている時に、親父は一度も怒鳴ったことないよ。ここの先生は、ありゃ音楽を知らないんだよ。恐怖から音楽好きは生まれやしないものな」(106頁)
考えさせられる部分です。信仰もある面で同じでしょう。聖書の中の話や聖句、あるいは教理を覚えることに汲々として、復活されたイエスとの生きた出会い・交わりがなければどうなるでしょう。真剣な意味で「イエスを楽しむ」ことなしに信仰生活は成り立たない気がします。

榎本牧師は1977年7月27日に52歳の若さで天に召されます。信仰者としての歩みは、8月4日の本葬で語られた、親友・林惠氏(同志社大学神学部時代の同窓生。教師)による説教によく表れていますので、その部分を引用します。
  • ……先生は入信するやたちまち伝道者として召され、神学校在学中すでに世光(せいこう)教会を設立し、洛南の開拓伝道に携わりました。先生の著書名のごとく、その生涯は、主イエスのご用に召された「ちいろば」のそれでありました。そうして、自らのプログラムを持たず、主の引き給う手綱のままに、その馳せ場を忠実に走ったのであります……しかし人間的には先生を崇拝し、祭り上げることをしてはならないと思います。信仰が個人崇拝となり、榎本教となることは、先生の最も警戒されたところであります。先生亡きあとは、先生の教えのごとく、祈りをもって直接聖言(みことば)に聞き、神ご自身に育てていただくことを求め続けたいと思います。(740~41頁)

 榎本牧師は自分と妻和子との血と汗の結晶とも言える世光教会を十数年で去ります。信者に慕われすぎて、「榎本先生がいないと教会に来ない」「大丈夫、ここは榎本先生の教会だから」というような話を彼らがしているのを陰で聞いたからです。それを耳にした榎本牧師の思いは次のようなものでした。
  • ここは榎本牧師の教会やない! イエス・キリストの教会なのだ。自分がいようといまいと、この教会はキリストを信ずる者が礼拝に集まる場所なのだ。自分はもしかして、キリストの前に立ちはだかって、信徒をキリストに真に仕える者へと育てていないのではないのか。(555頁)
そして次のように祈り、数年後に教会を去っていきます。
  • 神よ、世光教会に仕える者として、12年の長い年月、私をこの教会においてくださったことを、心から感謝いたします。神よ、私はこの教会を熱く愛しております。しかしながら、私がこの教会にあることが、信者たちの成長の妨げとなるならば、私を去らせてください。神が行けと言われますならば、どこへでも行けるように私を強めてください。どうか、この教会を私物化する過ちを犯さぬよう、お導きください。(558頁)

以上の他にも、戦争に応召されて出会ったカトリック神学生との邂逅、世光教会の青年の集まり「ヨルダン会」のメンバーだった高校生の端田宣彦(後のフォーク・クルセダーズの一員、はしだのりひこ)のことなど、読みどころ満載です。 

JELA事務局長
森川 博己

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