ドイツの神学者ヘルムート・ティーリケは、1963年の半年間に北米各地を訪れ、大学教授・学生・牧師・ジャーナリスト・テレビ関係者等と興味深い対話をしました。『現代キリスト教入門――福音的信仰の核心』(佐伯晴郎訳、1972年、ヨルダン社) でそのエッセンスが読めます。
率直に意見を表明し質問を投げかけてくる学生たちとの議論が特別に印象深かったようですが、その中のファンダメンタリストたちに対して、著者が感じた大きな責任について記した部分をご紹介します。
ファンダメンタリストは、「自由主義神学に対抗して起こった、アメリカを中心とする、極めて保守的なプロテスタント信者。逐語霊感説に立って聖書の無謬を信じ、進化論や、聖書の歴史的批評的研究に反対する」(本書13頁の訳注から森川が自由に引用)人々です。
ファンダメンタリストの素朴な、しかし信仰を議論する上で無視できない「信念」について、著者は危惧を示し、助けの手を差し伸べようとしています。
・この国のファンダメンタリストたちは、キリスト教信仰の本質を保持しようと望んでおり、……この国の教会の、もっとも信頼性の高い、自己犠牲をいとわぬメンバーなのだ。しかし私は彼らが、思いあがった啓蒙主義者 たちから頭ごなしに批判され、その結果ひじょうに不当に扱われているのを、悲痛な思いで見せつけられてきた。そこで私は、どうすれば、これらのファンダメンタリストたちを助けることができるか、いろいろと考えた。(本書10頁)
逐語霊感説の問題点と歴史的批評的研究の利点を、ファンダメンタリストたちの気持ちに配慮しつつ明快な論理を駆使して説くくだりは、すべての信仰者に有益なものでしょう。
歴史的批評的取り組みを著者は全面的・無反省に認めるのではなく、研究者自身の姿勢が問題になることを指摘します。
キリスト教的真理の究明にあたり、著者が重視し強調したいことはパスカルの言葉とされる「船が確実に港に着くことを知ってさえおれば、船中で嵐に会うのは素晴らしいことである」(37頁)に要約されます。
信徒である私たちと共に船中でイエスが眠っておられるのだから、嵐(=ブルトマンらの歴史的批評的聖書解釈)におたおたする必要はないと、著者は次のようにファンダメンタリストを励まします。
本書は専門用語が多く翻訳がこなれていないことから、理解しにくい部分もありますが、「教理の拘束性」「奇跡の意義」「真の信仰と偽りの信仰」「異言を主張する人たちとの出会い」「永遠の御国における不信仰者の運命」「倫理と『予定』の関係」「教会の政治参加」などに興味のある人には得るところの多い本です。
率直に意見を表明し質問を投げかけてくる学生たちとの議論が特別に印象深かったようですが、その中のファンダメンタリストたちに対して、著者が感じた大きな責任について記した部分をご紹介します。
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ファンダメンタリストは、「自由主義神学に対抗して起こった、アメリカを中心とする、極めて保守的なプロテスタント信者。逐語霊感説に立って聖書の無謬を信じ、進化論や、聖書の歴史的批評的研究に反対する」(本書13頁の訳注から森川が自由に引用)人々です。
ファンダメンタリストの素朴な、しかし信仰を議論する上で無視できない「信念」について、著者は危惧を示し、助けの手を差し伸べようとしています。
・この国のファンダメンタリストたちは、キリスト教信仰の本質を保持しようと望んでおり、……この国の教会の、もっとも信頼性の高い、自己犠牲をいとわぬメンバーなのだ。しかし私は彼らが、思いあがった啓蒙主義者 たちから頭ごなしに批判され、その結果ひじょうに不当に扱われているのを、悲痛な思いで見せつけられてきた。そこで私は、どうすれば、これらのファンダメンタリストたちを助けることができるか、いろいろと考えた。(本書10頁)
逐語霊感説の問題点と歴史的批評的研究の利点を、ファンダメンタリストたちの気持ちに配慮しつつ明快な論理を駆使して説くくだりは、すべての信仰者に有益なものでしょう。
- 彼(=神)は、人間のペンや筆の運びを指導するようなことで、満足される方ではありません。このことこそ、実は、逐語霊感説を唱えた人々が考えたことでしたが、それを現代風に言うと、天のサイバネティックスという、夢か幻のような考えになります。つまり神は、自動速記機械を操る人と同じことになるのです。(中略)このような考えの別の面が、私たちにとって非常に危険なものとなります。それは、ここから生まれてくる、聖書に対する律法主義的な態度であります。もし私たちが、あらゆる場合において、とにかくここに<文字を持ってこのように書いた>方は神ご自身であるという絶対的理由によって、何かを強制され、意味のよく分からない聖書テキストについては、ただひとつの解釈だけを聞かされたり、比喩的に教えられたりするとすれば、いったいどのようにして私は、この聖書から、神の自由な恩寵について、また私たちはもはや幼稚な子どもではない(エペソ4:14 )ということについて、聞くことができるでしょう。(21~22頁)
- 自ら人間の歴史の中に入って来られた神は、それにより、まったく確かに、歴史に関する歴史学的な作業を、きよめてくださったということになります。「言葉は肉体となった」とか、「主は僕のかたちを取って、私たちの中に入って来られた」と言いながら、同時に、「そんなに近くに寄って、この人間となった神を眺めてはいけない! お前たちは受肉を調べたり、その歴史を研究したりしてはならない! おまえたちは、この神を、信仰をもって受け取るか、それとも、不信仰によって絶交するか、そのいずれかである」などと言うことは、まったく無理な話であります。(26頁)
歴史的批評的取り組みを著者は全面的・無反省に認めるのではなく、研究者自身の姿勢が問題になることを指摘します。
- 人間のすべての業には、罪や自己過信がしみこんでいるが、歴史学だけは例外であるなどということになれば、それはとんでもないことです。知覚する理性とともに反省する理性がある<決して自由奔放な合理主義だけがあるわけではない>のとまったく同じように、信仰から発する歴史の考察――それは神のへりくだった姿を究め、神の和解の業を、感謝を持って記録します――もありうるのです<したがって、すべてのものを相対化する歴史主義だけがあるわけではない>。(27頁)
- もしも私が、機械的な逐語霊感説に固執するとしたら、私は、歴史学的な問題を信仰の領域から追い出し、それを、信仰なき世界に任せることになります。そして、思想史においてわずかでも学んだ人は、信仰なき世界が、この神の歴史をどのように取り扱うか、教会の「門の外で」いったい何が起こるかについて、よく知っています<ヘブル13:12 >。(27頁)
キリスト教的真理の究明にあたり、著者が重視し強調したいことはパスカルの言葉とされる「船が確実に港に着くことを知ってさえおれば、船中で嵐に会うのは素晴らしいことである」(37頁)に要約されます。
信徒である私たちと共に船中でイエスが眠っておられるのだから、嵐(=ブルトマンらの歴史的批評的聖書解釈)におたおたする必要はないと、著者は次のようにファンダメンタリストを励まします。
- 自分たちの信仰が脅かされているとだけ思うような人<そうであればあるほど、彼らは神学的課題に対してますます消極的になりますが>には、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを知っている」(ローマ8:28)という聖句でお答えすることができましょう。(60頁)
本書は専門用語が多く翻訳がこなれていないことから、理解しにくい部分もありますが、「教理の拘束性」「奇跡の意義」「真の信仰と偽りの信仰」「異言を主張する人たちとの出会い」「永遠の御国における不信仰者の運命」「倫理と『予定』の関係」「教会の政治参加」などに興味のある人には得るところの多い本です。
JELA事務局長
森川 博己
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【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)ウェブサイト
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